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2015/12/12

「花燃ゆ」最終回鑑賞ガイド

駄作大河ドラマ「花燃ゆ」が、明日の放送をもって、やっと終わります。
この悲劇を二度と繰り返さないためにも、最低の最低たるゆえんを振り返っておきます。最終回を待たずに総括を行うのは、稀代の時代観察者だったナンシー関の著書にある、「買った本があまりにつまらなかったので、腹いせに最終ページだけ読まなかった友人」の故事にちなみます。ワーストテン形式で順位の低い方から発表します。この作品の熱心なファンの皆様におかれましては、最終回を視聴する上での一助(なんでこうなった!?)となれば幸いです。
10位 NHKサービスセンター
「花燃ゆ サービスセンター モニター」でググると、不自然に本作を宣伝しているブログやTwitterの数々がヒットします。「NHKサービスセンターのモニター(またはキャンペーン)に参加中」と、どこかに書いてありますが、これはNHKサービスセンターが、カネを払うから大河ドラマの宣伝をしてくれと持ちかけた成果。
数百円のお小遣い稼ぎをしたいブロガーさん方に罪はありません。国民の放送文化向上を目的に運営されている財団法人・NHKサービスセンターが、大河という看板の広告を一般ネットユーザーを使って、受信料をもって行うとはいかがなものか。問題意識をもつべきはその一点です。コソクな策をめぐらさずとも、作品がしっかりしていれば視聴者はついてくるのです。最近明らかになった350億円の不適切な土地買収問題と併せて考えるに、この局は受信料の使い方がおかしくなっているのではないですか。
9位 タイトルの効果音
オープニングタイトルに、いつの間にか雷鳴がとどろくようになりました。この中途半端なSEが花燃ゆクオリティ。どうせやるなら、鹿や鳥がピーッとかキーッとか鳴きわめく声や、雨がザーッと降ったり滝がドーッと落ちたりする効果音もとことん全編に入れて、“統一感”を出せば良かったのに。笑いは取れますよ。イライラさせられるより精神衛生上よほどよろしい。
書き下ろした渾身の1曲に「ぴしゃーっ!」とマヌケな落雷音をかぶせられる作曲家はたまらないでしょうが、川井憲次さんの了承は取り付けたんですかね。それとも「編集権は放送局にある」と、押し切ったのか。いずれにせよ出来上がりはセンスが悪いですね。
8位 スローモーション祭り
図書館によっては、「月刊放送ジャーナル」という雑誌が置いてあります。新しい撮影・音響など、さまざまな機器や地方局の技術への取り組みなどが取り上げられていて興味深いものがあります。一読しただけでNHKの放送技術力は世界屈指、少なくともダントツの日本一だと理解できます。
カメラの新兵器だって自前で開発する人材と資金が豊富なのですが、その技術が作劇を阻害すれば本末転倒。例えば、「龍馬伝」はあきらかにカメラマンの嗜好が作品に反映されすぎた一作でした。高性能の手持ちカメラが躍動感を生み、背景の陰影や俳優の表情を鮮やかに切り取った創意工夫はさすがです。でも、やりすぎでした。お話が視聴者に届きにくいのです。「映像のための映像」を醸成させるのは、チームではなく、個人または各部署のエゴ。
「花燃ゆ」の名物カメラワークといえば、ご存知高速度撮影の乱投、いわゆるスローモーション過多です。道端をぼーっと歩いている久坂玄瑞にどどーんと使い、池田屋の斬り合いなど肝心なところはスルーするような不自然さが一貫していました。
最初は演出家がアレなんだと思っていましたけど、実は違うのかもしれません。タレントのマキタスポーツさんが、テレビドラマの撮影現場は画を作るカメラマンがもっともエラいのだとの旨、コラムに書いていたのを思い出しました。杞憂であればいいのですが、杞憂なら杞憂で制作責任者と演出家が無能だという結論に至ります。
7位 作法や所作の軽視
ヒロインや家族はもちろん、松島剛蔵の遺髪を無造作に牢屋に投げ込む藩吏、頭も下げずに「オッス」ポーズで来客を迎える高杉晋作の嫁ら、あまたの登場人物が無礼千万モード全開だった「花燃ゆ」は、近世・近代の決まり事をスルーし続けました。
特にひどいと感じたのは切腹シーン。周布政之助、西郷隆盛ともに介錯人がいません。一人でハラキリ自殺を敢行すれば、その末路は出血多量か、激痛からのショック死です。いずれも、苦しみ抜いた上での悶死。二人ともどれほどの時間、のたうち回ったことでしょう。
西郷の介錯は別府晋介という、歴史好きには割と有名な人が行なっていますが、佐久間象山も中岡慎太郎も不在だった本作には、そんなの関係ねえっす。介錯人なんか画的に邪魔なんですよね。終始、歴史上の人物を映像の部品だとしかとらえられなかった花燃ゆクオリティの本領です。
6位 「じゃが」「志」「至誠」3点セット
“だが”、“しかし”といった接続詞は、その前にあった会話の内容を離れて新たな意見や主張を入れることができる、劇の台本にはまことに便利な言葉です。おそらく、本作で“じゃが”が大量生産大量消費された理由でしょう。
ところがトロイカ体制脚本家3人が、書いた端からセリフの意味を忘れる連中でした。“じゃが前”と“じゃが後”の内容がつながらず、“後”の方は不規則電波発言になるのがお約束。加えて、そこへ“志”だの“至誠”だのと、作中で具体的に説明されないスローガンがほいほい出てくるもんだから、松下村塾は電波塾、電波重役ばかりの長州は電波藩に成り下がり、視聴意欲を削ぎます。
この手法は最近の流行らしく、朝の連続テレビ小説「あさが来た」でも、“そやけど”の乱発が会話から深みを奪っています。「あさ」の3点セットは“そやけど”、“おおきに”、“~してはる”。悪しき流行り病は早めに根絶しておかないと、「花燃ゆ」でコレラに罹患した平田満さんのごとく、全国の視聴者が塗炭の苦しみを味わうはめになります。
5位 イケメンドラマから老人劇へ
なんにも考えずに配役を決めるドラマがあるんですねえ。カネにあかせて、最初からイケメンや有名どころを大量投入。物語の混乱収拾が不可能になります。始末に困ると、主要人物に何かのきっかけを与える道具として、かたせ梨乃さんを手始めに次から次へと虐殺を始めました。
松下の塾生も頭数そろえたはいいけど、キャラクターの造形に手が回らず。第15回において小田村伊之助が一人ひとりを視聴者に再紹介する場面なんて、人気を上げるために投入した新キャラを全部活字で説明する頭の悪い週刊連載漫画のようでした。
かと思えば、井上聞多(馨)、山縣狂介(有朋)、赤根武人らは突然の誕生。坂本龍馬は明治になっても生死不明です。松陰センセーは存在しなかったことにされたのか。現在進行中の筋を作るのに精一杯で、前半の主役にまで気が回らないんでしょうな。
群馬に入ると、三田佳子さん、江守徹さんといった、もともと大役を務めるべき俳優たちが、「早く結婚しなよ~」とほざく、田舎によくいる、仲人を務めるのがシュミである年寄りみたいな夫婦として登場、暴走老人劇となりました。土曜ドラマ「破裂」での短いセリフを緩急自在にこなしたキムラ緑子さんから「演じる喜びとはこうしたものだろうな」と感動を得た翌日に、阿久沢とかいうゴミ爺さんをなぞる江守さんを見ると、「この期に及んで、まだ高いギャラがほしいのか」と邪推してしまいます。ええ、邪推ですよ。
キャスティングを、あだやおろそかにしてはならぬ。「花燃ゆ」は全国の映像劇制作者たちが激しい悪寒に震えるほどの教訓を与えてくれました。
4位 トロイカ体制による人格崩壊
大島里美、宮村優子、金子ありさ。脚本家それぞれが「文(美和)はこうでなくちゃ」「私の久坂はこんな人物よ」とばかりに自由奔放な創作を行なった結果、奇想天外なストーリーが生まれました。大河ドラマの主要人物ほぼ全員が多重人格者となったのです。毎週のように繰り広げられるビリー・ミリガン・フェスティバル。
小松江里子さんが参入すると、人物の設定すらどうでもよくなりました。足が悪かったはずの前原一誠が、萩の乱でズカズカ陣頭を進み、重い大刀をまるで竹光でござい、とばかりに縦横無尽に振るっての獅子奮迅。脚本家何やってんだ、演出家何考えてんだ、との悲鳴はごもっともですが、こんなことができるのは何も考えていないからに違いありません。
脚本家が交代しても、たび重なる育児ネグレクト(久米次郎&辰路の私生児)のようなネガティブ要素に限って、ヒロインの性根がブレないのがナゾです。
3位 大島里美作「神回」
「ダーリンは外国人」(井上真央主演)なるクソつまんない映画に付き合わされたことがあります。どこがクソつまらんのかといえば、異人種間カップルなど掃いて捨てるほどいる現代にあって、結婚までの過程が、おおげさでうそくさいエピソードとともに、シーボルトの娘の時代かよって感覚で描かれていたところ。この駄作に触れるのは、このたび衝撃の事実を知ったせいです。
「ダーリンは外国人 脚本:大島里美」
ああ、この人には現実を生きる人間の感覚がないんだ、さらに想像力もないから頭の中だけで作ってしまって終わりなんだ。だから「花燃ゆ」はあんなだったんだ。
瞬時にこれだけの思考へ及びました。NHKは脚本家選考の段階で「ダーリン~」を見ておくべきでした。
大島さんは大河でも、その想像力の欠如から、たびたび事故回を作っています。特に印象的だったのは第27回、頭のおかしくなったヒロインが、他人の家で呪いの言葉を吐き、ずぶ濡れになって地べたをたたきながらキーキー泣きわめくシーン。大河主人公の発狂という前代未聞のイベントを提供しました。この日は井上真央さんの世間相場をストップ安まで下落させたブラックサンデーとなりました。
そんな大島里美さんが、「花燃ゆ」中の白眉とも呼べる「神回」を生みました(あくまで「花燃ゆ」中です)。第14回「さらば青春」がそれです。吉田松陰とその一味が、幕閣間部詮勝の暗殺テロに傾注していくお話でした。
時代劇づくりは、史実と伝承、創作を組み合わせて行うものですが、想像力のない脚本家が浅く知った史実のみで書き進めたせいか、主役サイドにあるべき塾が邪悪なテロリスト集団としか描かれず、逆に井伊直弼がテロと闘う正義の行政官として人気を呈する逆転現象が全国の茶の間に発生。
妹「ここは人殺しの算段をする場所ですか?」
兄「今は学問なんぞしておる時ではない!」
吉田松陰自らが松下村塾の学問的意義を全否定。自分が書いた感想を読み直してみると、「すげえ、このテロ大河」と感心していました。
「花燃ゆ」第14回と大島里美さんは、テレビドラマの常識を変えようとした改革者として視聴者の記憶に残るでしょう。大島さん、ありがとう。そして、さようなら。
2位 言論圧殺機・小松江里子
大炎上中の住宅火災を鎮火せんと、天地人消防本部から駆けつけた隊員が、ホースからガソリンまき倒して取り返しの付かない延焼を引き起こした。小松江里子さんへの脚本家交代とは、いわばこんな事態でした。
初執筆から驚がく。毛利の殿様の嫡子が、もう廃藩置県終わってんじゃねえかってくらいに成長しています。明治維新をほっぽらかしてまでそこで描写されるのは、こどもの野菜嫌いを治さんと家庭菜園にいそしむ歴代藩主。楫取素彦の妻が死亡するコントの直後に、脈絡なく「妹と結婚しろ」なる亡妻の手紙を読まされた県令殿は、大沢たかおという名の俳優が台本のひどさにボー然としているの図にしか見えませんでした。
トロイカ時代の脚本を中二病患者の日記帳だとすれば、小松作品は国会図書館への納入が話題の「亞書」ですか。解読不能。
小松体制に入って以来、「花燃ゆ」へ的確な批評、ドラマ制作に愛情を持っていると思われた数々の優れたブログがばたばたと更新を止めています。あまりに凄惨な事故や災害を目の当たりにすると、人間は言葉を失うのでしょうか。自由な言論を止める規制マシーンとして、与党政治家のスピーチライターでもやってみたらいかが?
1位 視聴率コジキ
イケメン(惨敗)、攘夷テロ(神回付き)、大奥(幕末史より撤退)、維新(わしらの勝ちじゃあで終了)、群馬(富岡は存続じゃあで解決)←いまココ。
この流れは異常です。「花燃ゆ」みたいな事業計画のない企業は倒産しますよ。裁判所だって再生法の適用を認めるはずがありません。「花燃ゆ」とは、いったい何だったのでしょう。
娯楽映像作品において、制作の視線がどちらに向いているのか見極めることは大事です。本来であれば、もちろん、それは視聴者に決まっています。
「花燃ゆ」は違いました。何がウケるのか、どうすれば視聴率が上がるのかだけを模索迷走し続けた1年間でした。舞台をコロコロ変えて、数十話を過ごした段階でヒロイン自身に「愚かな女でした。これから変わります」(結局、最後まで愚鈍でした)と言わせてまで、不評の過去を糊塗しようともしました。すべては視聴率のため。「花燃ゆ」の1年間、いや、企画から放送が終わる明日まで、本作が追い求めたのは視聴者ではなく目先の数字だったことが迷走から読み取れます。イケメンが出るから数字が上がる、豪華な着物ショーを展開すれば女性が見る。大時代的アナクロ思考です。
「花燃ゆ」には、視聴率コジキの称号を贈ります。視聴者からの怒髪天を突いた批判や阿鼻叫喚の悲鳴を無視し続け、「面白かった」と言いつのったチーフプロデューサーが、それらの声に正面からこたえたことは一度もありませんでした。
今日は、視聴者からの大河ドラマ批判に対し、真っ向から説明責任を果たしたNHKスタッフのお話をします。第1作「花の生涯」に続き、1964年の「赤穂浪士」を演出した井上博ディレクターは、視聴者の批評にさらされました。井上Dは、朝日新聞紙上で視聴者へ意図を語りました。同年5月22日付の同紙「わかりやすい演出で 『赤穂浪士』批判に答える」から引用します。
「赤穂浪士」を放送して5カ月、さまざまなご批判、ご意見を各方面からいただきました。毎日10通以上、視聴者の皆様からの批評、お小言の投書ももらっています。ここに私の演出態度についてのべさせていただきます。
「赤穂浪士」は老若男女さまざまな階層の、全国津々浦々の方々に広く見てもらうための大衆娯楽作品です。大佛次郎先生の原作を、村上元三先生が脚色されたもので、各界のベテラン俳優に出演していただいております。動くスター名鑑というはげしい非難もうけましたが、ベテランの方々の年期をつんだ、すばらしい演技が、好評を受けていることも、私のところに寄せられている数多くの投書から察せられます。宇野重吉氏をほめる方もいれば、長谷川一夫氏、滝沢修氏、林与一氏をほめる方もいます。
ですからスターの演技を十分に画面にうつし出して、見る人の満足感を満たすことも演出の上での重要な要素になってきます。奇をてらい、自己満足的な不必要なカットや、テクニックは、できるだけさけ、わかりやすく、最大公約数的なテンポで台本を忠実に視聴者にお伝えすること、それが、私のこの番組で守っている態度です。もちろんテレビドラマでの前向きの姿勢も常に考えなければならないことですが、まず「忠臣蔵」という熟知されたストーリーを、それぞれの方がすでに強固にいだいておられるイメージから、あまりはずれることのないようにしながら、ジワジワと新しい観点に引っぱってゆくこと、これが私の演出方針でもあります。1回1回の話の仕組み方よりも、52回という長いマラソンレースの中で、少しずつ何ものかが視聴者の頭の中に沈殿(ちんでん)されてゆき、最終回を見終った(ママ)時にかつての「仮名手本忠臣蔵」でない、現代の世相、社会観が相通じるものが、浮きあがってくること、それが念願です。
元禄の社会をできるだけ忠実に(といっても、本当の意味でのリアルではありませんが)描き、日本中にみなぎっていた太平ムード、欲求不満の発散作用としてクローズアップされた浅野浪人のかたき討ちの意味を考えてみたいのです。全部を見終った(ママ)あとどの家庭でも自分たちの生き方をあらためて考え直し、議論の花が咲くことをひそかに期待しています。ともあれ前面にのさばり出さないようにしていること、これがこの番組での私の演出態度です。(引用おしまい)
視聴者に対する真摯な態度で、演出意図を語る井上博Dの言葉には説得力があります。「赤穂浪士」のテープは、ほんの一部を除いて残っていませんので未見です。作品の評価はできません。しかし、ディレクターが作品を視聴者へ届けんとする意図は明解です。全52回を見据えての演出。発言にもテーマを込めています。
制作局は、いや、NHKはこの思いを心に留めて「真田丸」に臨んでもらいたいものです。