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2015/12/19

紅白歌合戦視聴ガイド

NHK紅白歌合戦の出場者の顔ぶれを見ると、楽しみなのは今年も美輪明宏さんの芸能一択ですね。長いことヒット曲に恵まれていないベテランの常連には、フェアではないとの“義憤”から、「笑って許して」では済まない、「襟裳岬」のようにサムい等の批判が毎年ネットを揺るがします。
公平性の観点からすればごもっとも。しかし、これらアンティークな名曲が歌われる意味は十分にあると思います。阿久悠、岡本おさみといった名手たちが作り上げた歌詞を楽しむ喜びです。
支離滅裂、理解不能の不自由な日本語、あるいは「日本語か?」って曲が多すぎませんか? 公共放送の放送文化研究所が本気で俎上に乗せたら、ダメ出しの山になる紅白の歌詞群。例えば、AKB48が大晦日に歌うであろう、連続テレビ小説「あさが来た」の主題歌を毎朝聴いていて、おかしいと感じませんか?
人生は紙飛行機
願い乗せて飛んで行くよ
風の中を力の限り
さあ心のままに(「365日の紙飛行機」より)
紙飛行機って自前の動力、ないですよね。風力と重力の作用によってのみ飛び、落ちる物体は、力の限り飛んだり心のままに動いたりできません。ニュートンを持ち出すまでもなくヘンです。こんなのが多いんですよ。
国語も物理も関係ない歌の数々がまかり通る歌合戦の現状に、敢然と非を鳴らしたのが作曲家の船村徹さん。18日付の毎日新聞夕刊「演歌よ再び」から引用します。
北原白秋にしても、私が晩年に一緒に仕事をした西条八十にしても、日本の古典をよく勉強し、ずばぬけた国語力があった。近ごろの日本の歌にはそれが欠けている。それにリズム重視で、メロディーがおろそかになっている。 (引用おしまい)
いいぞ、船村さん。もっと言って下さい。演歌に限らず流行歌全般にあって、日本人として、その国語がおろそかにされるのは我慢なりません。みんなもそう思いませんか。ちょうど西条八十について調べていたので、今日はこの巨人を紹介することで、歌謡曲の言葉について考えてみます。
古関裕而との名コンビで戦前から数多くの名曲を送り出し、戦後も「青い山脈」「王将」など今も歌い継がれるナンバーを書いた西条。おじさんがこどものころは、難解なのになぜか心ひかれる「かなりや」という童謡をしょっちゅう聴かされたものです。
死去の2年前、西条は朝日新聞の取材に対し、その半生を詳述しました。1968年9月1日付の朝日新聞「人生を語る」より引用します。本文にはカギかっこが欠落しているところがありますので、読みやすくするため、おじさんが補足充当しています。
(前略)明治25年(1892年)、東京・牛込の生れ(ママ)。父親は外人から石けんの製造技術を学び、日露戦争当時は「乃木ムスク石けん」「東郷化粧水」を売出し(ママ)、財をなした人。
「しかし、工員も家族も、いっしょに食事をした。正月に松を立てるような形式はいっさい否定。父はそんな人でした。家の周りは屋敷町で、ぼくは『町っ子』とばかにされ、士族の家の初午(うま)祭から追出された(ママ)ことなど、いまも忘れない。小さいころ、おきんさんという老女(落語家談州楼燕枝の実母)が家にいて、江戸の手まりうたや数えうたを毎晩きかせてくれたものです。ぼくはけんか早い子どもでね、硫酸入りのビンなどを持ち歩き“硫酸の八十”などと呼ばれたこともあったんだ。硫酸といっても実はニガリだったんだが」
「家では舶来の石けんや香水も扱っていたので、それらのエキゾチックなレッテルを持って、よく屋根にのぼり、一人でいつまでもながめたものです。そんなことが外国や外国語への興味の糸口になり、中学2・3年のころには“ぼたんどうろう”の英訳もしました」
それらすべての話が、後年の姿につながってくる。同席した長女の詩人三井ふたばこさんは「父にはとても純粋なものがあるのです。どんな誤解をうけても、自分をいつわることはできない人です」といいそえる。
「早稲田では、島村抱月の最後の教え子でした。松井須磨子との恋が燃え上がっていたころで、先生、講義中に居眠りするんです。なんともなつかしいな。坪内逍遥先生と比べ、文句なしに島村先生がなつかしい。からだ中から放出される抱月の苦悩が、ぼくらを打った。文学のあやしい魅力にも通じるものでした」(引用おしまい)
江戸文化に触れ外国文化が身近にあって、さらには島村抱月、坪内逍遥らに文学を学ぶ。とても恵まれた環境にあった西条ですが、ただの金持ちのボンボンでは、他人の心に届く言葉などつむぎ出すことはできません。大学時代、西条の生活は一変します。引き続き同記事から引用します。
父の死、そして早大在学中に兄の放蕩(ほうとう)で家は没落。株に手を出したり、テンプラ屋、出版業等、転々とする。テンプラ屋時代、寒い夜、ハッピ姿の職人が腹掛のドンブリからゼニをつかみ出して、新聞売りの少年に天どんをごちそうするのなどを見て「人情は下にあって、上にないものだと痛感した」
このころ、「赤い鳥」に「唄を忘れたカナリヤ」を発表した。ふたばこさんを負んぶして上野の山を歩きながら作ったものという。株で失敗した当時で、カナリヤは氏自身だった。
翌大正8年(1919年)、処女詩集「砂金」を自費出版、売れに売れて18版。大正10年早大講師に招かれる。「1週間も前から講義の準備、バスを待っている間も辞書を手放さないのです。私にも、辞書を暗記せよとよく申しました」とふたばこさん。
「暗記して辞書を食べちゃうんだ。いまの人は、言葉を知らないな。流行歌なんて全くひどい。帯の“いっぽんどっこ”を刀と勘違いしたり…。それに、日本の詩人には、外国の詩を原語で読む人が少ない。原作者と同じ展望を持った人でなくては、いい訳はできないよ。その点、永井荷風などさすがだったな。詩は音楽と思想と象徴的な手法で成立つ(ママ)んだ。とくに最近の詩は音楽を忘れている」
関東大震災のとき、被災者の中から1人の青年が夜吹いたハーモニカの音が恐怖におののく避難民の心をやわらげたのを見たとき、大衆詩への意欲をそそられ「戦後、テレビの“私の秘密”で、あの少年と再会したときは驚きました」(引用おしまい)
たくわえた教養とたゆまぬ向学心に、貧困下、そして大災害時に体験した人の情けが加わって、ヒットメーカー西条八十を誕生させました。
言葉を大切にした西条ですが、戦前戦中はその才能を軍歌に浪費させられました。「比島決戦の歌」なる代物があります。
いざ来いニミッツ、マッカーサー
出てくりゃ地獄へ逆落とし(「比島決戦の歌」より)
不世出の詩人とは思えぬアホな歌詞。軍の情報将校が書き加えたとされています。表現の自由なき時代の狂気です。
さて、自由の権利が保障されている現代の紅白歌合戦を、茶の間で楽しむ法を提案します。番組では歌詞のテロップを流します。それをひたすら追ってみるのはいかが。きれいな衣装も派手な踊りも、はた目で処理。とにかく歌詞の意味を考える。
おそらくイミフナンバーが大量発生します。そんな歌とそんな歌手はバカにするのです。「何言ってるのかわからない」「そんなことあるかい!」などなど、液晶画面にツッコミを入れるのもいいでしょう。ブログやTwitterに感想を書いてみるのもいいことです。主張することは自身の国語力研さんにつながるし、いずれ歌謡曲の歌詞復権の動きに結びつくやもしれません。
言葉の力が世の中を変えることだってあります。西条八十の詩の数々がそう。
「いざ来い朴槿恵、習近平」と言わんばかりのけんか腰世論が醸造されつつある昨今、音楽が変化の一端を担ってくれることを、まだまだ信じています。