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2014/06/27

天皇陛下と対馬丸事件と戦時の人間性(2)

前項からの続きです。
話は終戦30年後に飛びます。対馬丸の惨事の生き残り、田名さんと平良さんは、命を拾った他の生存者、遺族らと上手に付き合っているのでしょうか?1975年8月19日「夏雲三十年 対馬丸」から引き続き引用します。太字挿入はおじさんによります。

毎年8月22日、対馬丸遭難者の慰霊祭は、那覇市で行われる。田名は一度も出席したことがない。「わたしが行けば、遺族の悲しみをかきたてる」。かたくなに沈黙を守る。あれからずっと、田名が朝夕、学童たちの霊に手を合わせているのを知る人は少ない。
家族が寝静まった深夜、平良啓子は、ふと、31年前の自分の姿を思い浮かべる。無人島のがけの上から、沖を行く小舟に向かって叫び続ける姿を。
この体験を教室で語る。受け持ちの小学3年生たちは、スポーツの試合でも見るように目を輝かせる。「そんなこと、ほんとに、あったの」。いぶかしげに聞き返す子もいる。「この子たちに平和のありがたさは、わからないでしょう。戦争がおそろしい、悲惨なものだからこそ、平和がありがたいのですから」
平良には、4人の娘がある。長女は中学2年生。「この子たちが大きくなった時、また戦争が起きたら……」という思い。「そうさせないために、あの体験を一人でも多くの子に伝えるのが、教師としてのわたしの務めだ」(後略、引用おしまい)

おじさんは、会ったこともなく顔すら知らない、田名さんの手を合わせる姿に、平良さんが教室で平和のありがたさをこどもたちに語りかける口調に、思いをはせます。
両陛下は初の訪沖で、火炎びんを投げつけられた経験をお持ちながら、10度目の沖縄訪問を果たされました。沖縄の人たちへの特別な配慮なのでしょう。
名もなき2人の語り部と両陛下の、戦争を憎み平和を希求する気持ちは、同等だと思います。「戦争の悲劇から逃げない務め」。誤った過去に真剣に向き合う天皇陛下万歳。田名さん、平良さんの生き様にも万歳!

天皇陛下と対馬丸事件と戦時の人間性(1)

天皇皇后両陛下が、沖縄にある対馬丸事件犠牲者慰霊碑に献花、生存者や遺族らと会談されました。
対馬丸は70年前の1944年、大勢のこどもを含む民間人が乗って、沖縄から九州に向かう途中、米軍の攻撃により沈められた疎開船です。こどもたちは魚雷の爆発で引き裂かれ、その難を逃れた子も、多くが救命胴衣を渡されず溺死したそうです。
今日は終戦30年後の1975年8月19日の朝日新聞「夏雲三十年 対馬丸」から、事件を生き延びた2人の記憶とその後の人生を取り上げます。気分が悪くなる部分があるかもしれませんけど、ガマンして読んでほしいな。以下に引用します。

(前略)平良啓子と田名宗徳。31年前に沈んだ学童疎開船「対馬丸」の、数少ない生き残りである。
平良は国領村安波国民学校4年生。田名は那覇市天妃国民学校訓導、引率責任者であった。「対馬丸」の悲劇は、平良に教員への道を選ばせ、田名を教育の現場から去らせた。
昭和19年8月22日夜。戦火迫る沖縄から九州へ疎開する学童や一般人1661人を乗せた対馬丸(6.754トン)は、トカラ群島悪石島付近で米潜水艦の魚雷攻撃を受けて沈没した。1484人が死んだ(注・正確な犠牲者数は不明)。
平良は、いかだで漂流した1週間に、大人のみにくさを見た。助かるために、人を突き落とす。せっかくつかまえたトビウオを横取りして食べてしまう。
4日目、隣にいた老女が、海中に倒れ込んだ。えりをつかんで、引き上げようとする背に、同業者の冷たい声がとんだ。「死んでいるんだ。離せ」。目をとじて、手を離すと、心で叫んだ。「ごめんなさい、わたしが悪いんじゃない」
この体験は、のちに一つの確信になる。人間は生死の瀬戸際に立つとオニにもなる。人の理性を失わせる戦争を二度と起こさせないために、自分の体験を語り伝えねば、と。
田名も8日間、波間を漂った。6歳の娘は、3日目に息を引き取った。引率訓導としては、できる限りの責任を果たした。だが、たくさんの子供たちが、夜の海に消えていくのを、どうすることもできなかった無力感、悲しみが突き上げる。「わたしの教育は終わった、と感じはじめました」。戦後、那覇に帰って間もなく、教壇を去った。(引用おしまい)

戦争は絶対悪です。軍人同士が殺し合うだけじゃなくて、一般人の心も邪悪にします。その後の人生も狂わせます。前世代が父親(昭和天皇)の名の下に始めた戦争ですが、陛下は70年後の今なお、すべての戦争被害者に心を砕かれています。不戦の君主です。
再び日本が戦争に突入すれば、天皇家は今後もずっと、戦渦に苦しむことになる人たちの魂の救済に、つらいつらい旅路をたどり続けることになります。
皇室をうやまうあまり「天皇陛下万歳」を繰り返す方々こそ、率先して戦争のできない国家体制の継続を訴えるべし。おじさんも言いましょう、天皇陛下万歳!
平良さん、田名さんのストーリーはこれで終わりません。この項、続きます

2014/06/26

沖縄戦司令官・大田実礼賛者の欺まん(2)

前項からの続きです。
沖縄戦の米軍兵力約55万人、日本軍守備隊10万人。兵士が足りません。弾薬はじめ物資も足りません。非戦闘員の民間人に手伝わせてるけど男手は限界。それなら女も動員しちゃえばいいや。こんな島、しょせん本土防衛の捨て石だ。1945年6月15日の朝日新聞「愛児を後方に託し “仇とれ”と母戦ふ 小禄指揮官血涙の報告」から引き続き引用します。太字挿入はおじさんによります。

また敵の手中に陥ち(おち)、後方に運び去られて毒牙に供せらるるを潔しとせざる若き母は、親子生別れ(いきわかれ)を決意して、悉く(ことごとく)幼き愛児を後方に託し、この仇断じてとれよと諭しつつ、あるひは看護婦に、あるひは烹炊婦(ほうすいふ、注・炊事担当)として挺身奮闘せり。
激戦相つぎ車の移動、漸く(ようやく)頻繁の度を加ふるにおよび、衛生兵の前線出動も激しく、看護婦となりし婦女子は兵に代り(ママ)重傷者看護し、あるひは担架にて護送する等、その健気なる姿は、誠に日本婦人の亀鑑(注・よい見本)たり。
さらにまた戦線の変化に伴ひて、遠隔の地に住所地区を定められることあるや。輸送困難を克服し、暗夜篠つく雨中、砲撃弾雨をいとはず、黙々として命に服せり。顧みれば、沖縄防衛戦開始以来、終始、困苦峡乏(こんぐきょうぼう、注・物資不足に苦しむ様)に堪へ、誠心誠意生死を超越し、国体護持の大義に徹せる、その勇戦奮闘の姿は、真に銃後国民の範たるべきものなりと思案す。(引用おしまい)

鬼畜米兵がたくさん上陸していて、生きたまま捕らわれたら、女は残酷な目に遭うと兵隊さんが言います。それなら、空襲や艦砲射撃の弾がどかどか飛んでくる中、小さなこどもを捨てて、コクタイとやらをゴジするために戦場を駆けるわ。
そんな母親がどこにいる?みんなのお母さんがこんな人だったら嫌いになるよね。親子の根本的なつながりを奪ったのが日本軍であり、戦争であります。
厚顔極まるのは、本土の市民にも沖縄県民のようにコクタイゴジ貫徹のためにいずれ死ねと言っていることだね。
大田実が逆境に際してまじめに職務を果たし、最後の最後に沖縄県民を賛美したからといって持ち上げるのは間違っていると、おじさんは強く訴えたいのです。真剣に仕事をした人が皆ほめられるのなら、アウシュビッツ(Auschwitz Concentration Camp)やダッハウ(Dachau Concentration Camp)といったユダヤ人強制収容所の所長だって賛美されなきゃならないからね。
「時代」のせいにするのもフェアではありません。人道は普遍の価値だからね。「時代が変わったから戦争できる国に日本を変える」というお話は、絶対に許されない狂気です。

沖縄戦司令官・大田実礼賛者の欺まん(1)

60万県民の4人に1人が亡くなったと言われる沖縄戦。大田実海軍少将という守備隊の指揮官がいました。沖縄県民の奮闘をたたえる電文を海軍省に送ったことで、県民の心を知る英雄扱いして悲劇の実態を覆い、ややもすれば戦争賛美に持ち込もうとする向きが一部にあるようですが、冗談じゃない。彼は多くの琉球人を惨死に追いやった張本人の一人に相違ありません。
軍部は沖縄戦を美化するため、すでに自殺している大田の死を隠し、電文を現地司令官の「談話」に改作してマスコミにリークします。
1945年6月15日の朝日新聞に「愛児を後方に託し“仇とれ”と母戦ふ 小禄指揮官血涙の報告」なる記事が載ります。これが大田電文にそっくり。平文で読むと、日本軍が戦場でいかに沖縄の人たちを使役したかがわかります。以下に引用します。太字挿入はおじさんによります。

沖縄戦局は今日重大な局面に立ちつつある。戦線の焦点小禄地区では、敵の熾烈な砲爆撃下に我軍(わがぐん)は、阿修羅の如き奮戦をつづけているのだ。我軍は――正しくは我同胞は、身に戎衣(じゅうい、注・軍服)をまとふと否とを問はず、潮と押してくる敵前に、大和民族の真面目を花と咲き誇らせてゐる。(引用おしまい)

沖縄人も血を流せば、言葉の上では大和民族の仲間入りさせてくれるみたい。大和民族とか大和魂っていったい何だろうね?ここまでは勇ましい美辞麗句が並んでいるのみで中身がありません。続きを引用します。

「沖縄県民はかく戦ひつつあり」
同方面守備部隊の指揮官(注・大田)は14日、海軍省に左のような血涙の報告書を寄せて、軍民一途の奮戦状況を明か(ママ)にした。沖縄戦局はまさに終局的様相を示し来つたが、この軍民一体の血闘記録は終局的段階なるが故に綴られた(つづられた)ものではない。本土決戦目睫(もくしょう、注・目前)に迫る今日、われらは沖縄同胞の意気と力を我身(ママ)に対して進まうではないか。(引用おしまい)

大田の電文送信は6日、13日に自害したとされます。日付を「14日」にしたのは、海軍省の情報操作。強制による「軍民一体」が誇らしげ。「自決」と言えば聞こえはいいけど、要は戦時下にある国民への責任放棄です。司令官が自殺してたら「終局的段階」なんかとっくに過ぎてるよね。「まさに終局的様相を示し」ているけど「終局的段階ではない」というのも意味不明。引用を続けます。

沖縄戦開始されるや本島在住の県民は、戦局の重大性に深く思ひをいたし、皇恩に報ひ奉るはこの秋をおいてなしとし、一木一草遂に焦土と化すも、神州断じて護持せざるべからずとの悲願に徹し、島民一丸となり戦場に挺身せり。即ち青壮年は挙げて戦線に馳せ参じ、残る老幼婦女子は敵の熾烈なる砲爆撃下に家財を烏有(うゆう)に帰せしめらるる(注・すべて失うこと)も敢て(ママ)屈することなく、身一つをもって防空壕に起居し、弾雨を浴び、風雨を冒し、一意後方任務に専念せり。

本音が出た!「神州」は本土であって、沖縄は含まれないんだ。沖縄に何の「皇恩」があったか、知ってる人は教えてね。
いくら皇民化教育を進めたところで、大勢の民間人が妻子やおじい、おばあを戦火の中に置き去りにして、自ら最前線に飛び込むでしょうか。強制のニオイがぷんぷんします。
第一、訓練された軍隊にとって、非戦闘員のてんでんばらばらな参戦は、邪魔でしかないはず。在沖日本軍は軍律も何もあったもんじゃない状況だったのでしょう。
国民を守るための軍隊が国民を危険にさらすのが戦争の現実。「国民の生命と財産を守るため戦争をする」とは政治家の常套句ですが、この手の人たちはたいてい狂人か、せいぜいおばかさんとして歴史に指弾されるものです。
この沖縄県民総軍神化物語には、さらにひどい展開が待っています。この項、続きます

2014/06/25

日米開戦前に決まった沖縄の「捨て石」政策

「慰霊の日」が終わった途端、潮が引くように消え失せた沖縄関連のニュース。今朝はもうサッカー一色です。米軍基地問題はしばらく議論されることなく、だらだらと現状維持が続くのでしょうか?
沖縄を本土防衛の時間かせぎの捨て石にする方針は、太平洋戦争開戦以前から日本政府、少なくとも内務省では定まっていた模様です。
日米間の緊張の糸が張り詰め、もう後は音を立てて切れるのを待つだけだった1941年11月、東京を訪れた早川元・沖縄県知事が朝日新聞のインタビューに、つい本音を漏らしています。当時は知事は住民による選挙ではなく、中央での任命制で決められました。早川は内務省の官僚です。この月23日の朝日新聞から「知事に聴く地方民の決意」の一部を引用します。

一たび事態が急転せんか、元寇の役における対馬の決意で――これが沖縄60万県民の覚悟である。(後略、引用おしまい)

近い将来、起こりうる(起こすつもりの)太平洋戦争を、鎌倉時代の元寇に例えていますね。13世紀にモンゴル人が治めた大陸の巨大帝国をアメリカ合衆国とし、沖縄の役目を元寇時の対馬と同じだと言っています。さて、どういう意味かな?
朝鮮半島に近い対馬は、元寇で最初に襲われた日本の島です。本土から遠く、幕府の援軍など望むべくもないので、島民のほとんどが虐殺されるか奴隷として大陸に連れていかれました。
本土の武者は、対馬からの連絡船によって敵の襲来を知ることができたそうです。対馬は住民が皆殺しの目に遭うことで、敵軍の動きをとらえるアンテナとなり、戦の支度を整える時間かせぎの役割を見事に果たしました。
早川知事の短い言葉に、本土の中央政府が沖縄に何を期待していたかが如実に表れていて、おじさんはとても嫌な気持ちになりました。省略した後段では、食糧増産が進んでいるとか翼賛体制構築が順調だとか、大丈夫だから沖縄なんか気にするなと言わんばかりの言辞が並んでいます。
沖縄が安全保障の捨て石から脱却できるのは、いつになるんだろうね。