コピー禁止

2014/06/27

天皇陛下と対馬丸事件と戦時の人間性(1)

天皇皇后両陛下が、沖縄にある対馬丸事件犠牲者慰霊碑に献花、生存者や遺族らと会談されました。
対馬丸は70年前の1944年、大勢のこどもを含む民間人が乗って、沖縄から九州に向かう途中、米軍の攻撃により沈められた疎開船です。こどもたちは魚雷の爆発で引き裂かれ、その難を逃れた子も、多くが救命胴衣を渡されず溺死したそうです。
今日は終戦30年後の1975年8月19日の朝日新聞「夏雲三十年 対馬丸」から、事件を生き延びた2人の記憶とその後の人生を取り上げます。気分が悪くなる部分があるかもしれませんけど、ガマンして読んでほしいな。以下に引用します。

(前略)平良啓子と田名宗徳。31年前に沈んだ学童疎開船「対馬丸」の、数少ない生き残りである。
平良は国領村安波国民学校4年生。田名は那覇市天妃国民学校訓導、引率責任者であった。「対馬丸」の悲劇は、平良に教員への道を選ばせ、田名を教育の現場から去らせた。
昭和19年8月22日夜。戦火迫る沖縄から九州へ疎開する学童や一般人1661人を乗せた対馬丸(6.754トン)は、トカラ群島悪石島付近で米潜水艦の魚雷攻撃を受けて沈没した。1484人が死んだ(注・正確な犠牲者数は不明)。
平良は、いかだで漂流した1週間に、大人のみにくさを見た。助かるために、人を突き落とす。せっかくつかまえたトビウオを横取りして食べてしまう。
4日目、隣にいた老女が、海中に倒れ込んだ。えりをつかんで、引き上げようとする背に、同業者の冷たい声がとんだ。「死んでいるんだ。離せ」。目をとじて、手を離すと、心で叫んだ。「ごめんなさい、わたしが悪いんじゃない」
この体験は、のちに一つの確信になる。人間は生死の瀬戸際に立つとオニにもなる。人の理性を失わせる戦争を二度と起こさせないために、自分の体験を語り伝えねば、と。
田名も8日間、波間を漂った。6歳の娘は、3日目に息を引き取った。引率訓導としては、できる限りの責任を果たした。だが、たくさんの子供たちが、夜の海に消えていくのを、どうすることもできなかった無力感、悲しみが突き上げる。「わたしの教育は終わった、と感じはじめました」。戦後、那覇に帰って間もなく、教壇を去った。(引用おしまい)

戦争は絶対悪です。軍人同士が殺し合うだけじゃなくて、一般人の心も邪悪にします。その後の人生も狂わせます。前世代が父親(昭和天皇)の名の下に始めた戦争ですが、陛下は70年後の今なお、すべての戦争被害者に心を砕かれています。不戦の君主です。
再び日本が戦争に突入すれば、天皇家は今後もずっと、戦渦に苦しむことになる人たちの魂の救済に、つらいつらい旅路をたどり続けることになります。
皇室をうやまうあまり「天皇陛下万歳」を繰り返す方々こそ、率先して戦争のできない国家体制の継続を訴えるべし。おじさんも言いましょう、天皇陛下万歳!
平良さん、田名さんのストーリーはこれで終わりません。この項、続きます