前項からの続きです。
話は終戦30年後に飛びます。対馬丸の惨事の生き残り、田名さんと平良さんは、命を拾った他の生存者、遺族らと上手に付き合っているのでしょうか?1975年8月19日「夏雲三十年 対馬丸」から引き続き引用します。太字挿入はおじさんによります。
毎年8月22日、対馬丸遭難者の慰霊祭は、那覇市で行われる。田名は一度も出席したことがない。「わたしが行けば、遺族の悲しみをかきたてる」。かたくなに沈黙を守る。あれからずっと、田名が朝夕、学童たちの霊に手を合わせているのを知る人は少ない。
家族が寝静まった深夜、平良啓子は、ふと、31年前の自分の姿を思い浮かべる。無人島のがけの上から、沖を行く小舟に向かって叫び続ける姿を。
この体験を教室で語る。受け持ちの小学3年生たちは、スポーツの試合でも見るように目を輝かせる。「そんなこと、ほんとに、あったの」。いぶかしげに聞き返す子もいる。「この子たちに平和のありがたさは、わからないでしょう。戦争がおそろしい、悲惨なものだからこそ、平和がありがたいのですから」
平良には、4人の娘がある。長女は中学2年生。「この子たちが大きくなった時、また戦争が起きたら……」という思い。「そうさせないために、あの体験を一人でも多くの子に伝えるのが、教師としてのわたしの務めだ」(後略、引用おしまい)
おじさんは、会ったこともなく顔すら知らない、田名さんの手を合わせる姿に、平良さんが教室で平和のありがたさをこどもたちに語りかける口調に、思いをはせます。
両陛下は初の訪沖で、火炎びんを投げつけられた経験をお持ちながら、10度目の沖縄訪問を果たされました。沖縄の人たちへの特別な配慮なのでしょう。
名もなき2人の語り部と両陛下の、戦争を憎み平和を希求する気持ちは、同等だと思います。「戦争の悲劇から逃げない務め」。誤った過去に真剣に向き合う天皇陛下万歳。田名さん、平良さんの生き様にも万歳!