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2015/08/02

「花燃ゆ」第31話感想「命がけの出演」

あの歴史作家も投げていた

「花燃ゆ」ばっかり見ていると、自分の知識や幕末観がイカレてしまいそうになるので、時にはマトモな書籍を読むことで正気を保つ作業が必要になります。
小説「敗れざる幕末」(見延典子著、徳間書店)はオススメの一冊。阿部正弘という幕臣がこの時代、いかに重要人物であったか再確認できます。彼の存在なくば、徳川慶喜、島津斉彬、マシュー・ペリーといった人たちの歴史での在りようは大きく変わっていたに違いありません。「花燃ゆ」では、井伊直弼の太刀持ちみたいな感じで、ちょこっと出ていたような気がします。それとも出番すらなかったか。記憶があいまい。
その著者である見延さんが、自身のウェブサイト「頼山陽ネットワーク」で、「花燃ゆ」の感想を述べていました。過去形なのは、見延さんがとっくに視聴を放棄しているからです。
大河ドラマの視聴を途中でやめるのは「江」以来だ。
せっかく立ち上げたコーナーではあるが、私の良識(笑)が続けることを許さない。(2015年4月29日のブログより引用)
わかる。わかりますよ、見延さん。通常の感覚です。おじさんが本作の感想執筆を(とりあえずは)続けるモチベーションは、「花燃ゆ」という出来の悪いサンプルに、過去の事例を試薬として加えることで、歴史を描く意味、映像劇の在り方を個人の趣味で探っていく、私的な実験にあります。もうしばらく継続させてみようと(今のところは)考えていますゆえ、この作品に興味のある奇特な方におかれましては、もう少しばかりお付き合い下さい。

大奥の企画は早々に破たん

第31回「命がけの伝言」を見ましょう。舞台を奥に移したのは完全な失敗でした。幕末の長州がメインステージであるからには、視聴者は舞い上がる硝煙や斬り結ぶ白刃の中、藩とその男たちがいかに維新に向き合うのか、そこを知りたいわけです。最近では、イクサであれば幕軍や列強などの人間相手でなくてもいい、巨大ザメとかゾンビ、インベーダーやら、もうジュラシック長州でも構わんから、壮大な戦争見せろと妄想するほど。
歴史の戦場から隔離された女の館で毎回毎回、菓子の味や世子の種付けなんかのスピンアウトを投げ散らかすドラマをだれが見たいものか。「坂の上の雲」に置き換えると、二百三高地や日本海海戦を完全スルー、同時期に徳之島でサトウキビ畑を管理する泉重千代の青春と農耕の日々を延々と放送しているのが、現在の大河ドラマ。これ、見たい?
松島剛蔵が打ち首に。この人、結局何をやらかしたんだ? 実母が死んだ時もニヤニヤしていた人でなしだったぐらいの印象しかありません。隊の詰め所では、野村靖が「(解散したら)これまで命を落とした者たちに申しわけが立たん」と、もう何度目かの英霊の死を無駄にしない宣言をします。70年前の戦争で利用された常套句を、何の疑問も呈せず乱発する脚本は、幕末長州人を戦争推進の権化としてあぶり出そうと、この言葉を繰り返し言わせているのでしょうか。赤根武人とか山縣狂介とか、急にわいて出てくるの、やめてくれないかな。ただでさえ、人物の整理がついていないんですからね。
九州を逃げまわる高杉晋作の元では、野村望東尼による見事な長州征伐中止の説明セリフ。図に乗ってる高杉が「幕府に討伐されるいわれなんぞない」。いわれ、あるよ。ありすぎるわ。孝明天皇が長州を討てと言ったんだよね。「すべては朝廷のために大義を貫いた結果。やのに武力に屈し、無実の忠臣たちの首を斬って差し出す」と俗論派批判が続くんですが、これこそテロリストの我田引水極まりたる暴論ですよ。まばたきもせずに目玉をギョロつかせて自派に都合のいいイデオロギーを語り続けるザンギリ頭の高杉は、ただただ気持ち悪い狂信者です。長州の連中は、尊皇攘夷の意味わかって使ってるのか。
兄の遺髪を弟の牢に無造作に投げ込む藩吏。こりゃひどい。いかな悪人であろうと、心ある武士の作法として絶対にあり得ません。前述した母の死の現場で笑う松島はじめ、本作の脚本と演出は一貫して人の心が薄いのです。

ヒロインが宇喜多直家化

雪舞う奥の門前で小田村伊之助の手紙を読む主人公。服装には相変わらず季節感がありません。萩って年中暖かいんだろうな。冬場に何度か行ったことがありますが、日本海からの猛烈な寒風が骨身に染みたものです。こういうシーンを巷間「サムい」と表現します。
志士たちの目的は、今回より完全に倒幕となりました。攘夷は選択肢から消えました。ついこないだ、下関で列強相手にボロカスに負けたことなど、すっかり忘れ去っています。便利な脳ですが、視聴者の記憶力を志士レベルだと侮られたら困ります。そこへ現れたザンギリ狂信者。品川弥二郎、どこ行った? 獲物が帰ってきたぞ。斬りかかれ、斬りかかれ。先週取り逃がした、グループ内の賞金首だぞ。まさか、それも1週間で忘れたのか? 降雪の萩で表戸を開け放ったまま意味不明の演説をする高杉。イッちゃってるようにしか見えません。
妻からの差し入れを開く小田村もマヌケなんですよ。こんな状況下、まずはメッセージがないか包みを改めるのが国士でしょ。まずはおにぎりを食う。一心に食う。そしたらはずみで手紙に気がつく。野山獄門外で雪をかぶるがままの優香さんの淡いブルーのお着物は夏物ですか?
杉家を出さない回をつくる試みは一考に値します。つまらんので今回も感想はスルー。それより重要なのは、主人公が暗殺実行犯とならんかというエピソードを投げ込んできた点です。30回の放送を過ぎて、本来ならヒロインのキャラクターを視聴者が把握していなければおかしい段階で、当人が戦国の宇喜多直家のごとき毒殺計画を、椋梨藤太にネコイラズを飲ませるような思わせぶりな演出でかまし、視聴者も「こいつならやりかねない」と思ってしまっている事態を、制作サイドはどう考えているのか。続く小田村の助命嘆願から、座敷牢に放り込まれる展開もイタタです。第一、奥に座敷牢なんて常設されていたんですか? 情緒不安定で、椋梨邸発狂の前科がある美和が来ることに決まってから、「あいつはアブナイから牢屋も要るな」って、突貫工事で建設したのかも。緊縮財政じゃなかったのか。
座敷牢なんてものがある時点で、大河ドラマというより「横溝正史シリーズ」のようなおどろおどろしさを感じる展開です。姫の独断で牢から出た美和は、義兄の牢屋へ一直線。何なの、このジェイルハウス祭り? モンテ・クリスト伯なの? 岩窟王なの? 視聴者は辛気臭い格子ばっかり見せられて、げんなりしている内に、高杉が元治の内乱の口火を切りますが、作品構成上、どうせ大した話にならないのを、視聴者は経験則として理解しています。いずれ、内戦よりサメやゾンビ出した方がマシですよ。
ナレが「すべては、一人の男(注・狂信テロリスト)に託された」と良い声でキメたラストシーン。再びヒロインが座敷牢に突っ立っていたので、失笑しました。

全編で笑顔がたった4秒

「4秒」。この数字が、今回の中身を物語っています。回想を除き、劇中で井上真央さんが笑顔を見せた全時間をカウントしてみました。それが約4秒。座敷牢の中で「(小田村は)初恋の人でした」と語る、気持ち悪〜い場面です。美和も小田村も眉間にシワを寄せているか、メソメソ泣いているかの45分。松坂慶子さんは守りに入っています。文節の切り方、口調ともワンパターンで押し切る覚悟のようです。北大路欣也さんの演技プランも、もはや尽きました。井上さんは先週、羊かんがどうのこうのというところで、明らかに芝居が荒れていました。今週はプレッシャーのかかる陰鬱な役。出演者の芝居がダークサイドに落ちてしまっています。この先、責任感の強い役者たちに、カウンセリングの必要性が出てきやしないものか、心配になります。過去の大河で、ここまで俳優をズサンに扱った作品があったでしょうか。笑顔のない大河ドラマ。

「花の生涯」と「花燃ゆ」

今日は、初の大河ドラマ「花の生涯」を成功させるための職員の苦労を振り返ってみます。NHKは重厚な映像劇を成功させるために、映画界のトップスター佐田啓二をブラウン管時代劇に引っ張り出さんと、全精力を注ぎました。1971年6月29日付の読売新聞「テレビと共に タレント繁盛記」から引用します。
(前略)佐田啓二のテレビ初出演を実現させろと厳命された合川明プロデューサーは「いくら破天荒の配役といっても無謀きわまりない人選だった」と当時の難交渉をふり返って苦笑する。主役はかぶき役者でいくしかないということで井伊直弼には尾上松緑を引き出すことに成功した。ただし、舞台公演に支障がないようにという条件があったため、当時のテレビとしては画期的ともいえるカット割り撮影を採用、ビデオ編集による抜きとり録画という現在のテレビ映画に近い収録方法で、松緑のスケジュールに合わせた。
たか女の役にはどうしても淡路千景がほしかったし、長野主膳役には芸能局内の秘中選考で佐田啓二に白羽の矢が立った。佐田が落ちれば淡島も落ちる。そう踏んだ合川プロデューサーは佐田宅への日参を始めた。「佐田さんはびっくりしましてね。“えっ!そんなのできないよ”と即座にお断り。帰って報告すると“落としてこないとクビだぞ!”と局長からどなられる。なにしろ、佐田啓二がテレビに出演することは、松竹の屋台骨が動くことですからね。約3か月の間、佐田さんの自宅で、坊やとキャッチボールしたり、奥さんの雑談相手でねばったけれど全然とりつくシマもない。あとから聞くところによると、表面は無回答だったけれど、裏では私淑していた小津安二郎監督や淡島千景さんなどと相談していたらしいのです。しまいには自分がなさけなくなりましてね。ついにたまりかねて“ダメなら脚本を返して下さい”とどなってしまったのです。もうこれでオレもクビと覚悟して帰ろうとすると“ちょっと待ってくれ、内容について話そうじゃないか”と、やっと色よい返事。それからが大変でしたよ。NHKから佐田さんの自宅に結髪や小道具係を連れていってふん装をさせ、テレビでもきれいにとれることを納得させた。テレビも初めて、時代劇も初出演ということで、二枚目の顔がテレビでよごされるのを心配したんですよ」
第二作「赤穂浪士」の主役、長谷川一夫も、出演OKする前に、NHKのスタジオにきて照明に注文を出したことでもわかるように、当時のテレビは、映画スターに信用されていなかったのである。佐田啓二が承諾すると、淡島千景、香川京子も「花の生涯」への出演を受け入れた。(引用おしまい)
当時のテレビドラマは「電気紙芝居」と呼ばれ、人気のある映画・舞台俳優からはバカにされていました。技術面への信用もなく、「テレビに出たら顔を汚く映されてイメージダウンになる」と嫌われていた風潮をひっくり返し、大河ドラマを現在の地位につなげたのが大スター佐田啓二の大河出演であり、幼かった中井貴一さんの遊び相手をしながら、その実現にこぎつけた合川さんらスタッフの情熱でした。この成功によって映画優勢の配役勢力図は崩れ、大河にウチの役者を出してくれ、タレントを使ってくれ、という盛況が生まれました。
「花の生涯」の努力が結んだ花が今、「花燃ゆ」の怠惰によって枯らされんとしています。権力はやがて腐敗します。権威はいつか失墜します。大河ドラマに求められる処方せんの一つは、大河はじめの一歩であった、その志まげませぬ精神を見直すことではないでしょうか。
見延典子さんのデビュー作は、映画にもなった「もう頬づえはつかない」でしたね。来年の「真田丸」は、この作家から「もう愛想はつかない」と認めてもらえるのでしょうか。