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2015/08/07

広島の小島から集団的自衛権を眺望す

沖縄戦での連合軍の全戦力は45万人、うち上陸部隊は18万人だと言われています。
敵兵や沖縄県民を直接に殺す役目を果たしたのは、上陸した兵士や戦闘機、艦砲射撃などでしたが、彼らの武器弾薬や食糧、そして彼ら自身を沖縄へ運んだ兵站部隊の存在があったからこそ、沖縄での戦闘は成立し得ました。
米国側から見れば、作戦を企画立案した将軍から食糧調達係までが、民主主義的な等しき功績と責任を担ったといった話になるのでしょう。皆が英雄。
広島への原爆投下についても同じことが言えます。命令を下したトルーマン大統領と、B29「エノラ・ゲイ」の搭乗員のみによる戦功ではないですよね。偵察・観測機や爆撃機の整備兵、原爆「リトルボーイ」を運んで、飛行機に積み込んだ兵卒らの行為があればこそ、あの惨劇が生まれたわけです。武力行使との一体化という奴です。
中谷元防衛相が、新安保法案について「核ミサイルも『弾薬』として運ぶ」と国会で答弁している中身は、70年前に沖縄県民や被爆者が被った惨禍を、現代において手助けしますよ、との決意表明。日本人が70年ぶりに戦争で人間を殺しますと、暗に国民に訴えているのです。「ヘイ、そこの日本人。この新型リトルボーイを戦闘地域まで持ってってくれよ」と言われたら、「喜んで〜」と応える。
昨日の広島原爆の日、被爆者をはじめとする市民が抗議の声を挙げるのは当然です。彼らこそが戦争被災者のアイコンなのですから。
広島市からほど近い海に、似島(にのしま)という小島が浮かんでいます。原爆投下直後、多くの被爆者が運び込まれ、死んでいき、その存在を忘れ去られました。
今日は、悲惨極まる名もなきヒバクシャたちの悲しいお話をします。
1971年10月14日付の読売新聞「原爆の霊、700体も 荒れ地に眠っていた」から引用します。年号は昭和です。
(前略)市立似島中学校(城実夫校長、144人)の農業実習場付近(旧陸軍馬匹検疫所跡)で、さる11日、仮埋葬されていた原爆死没者の7体分が、26年ぶりにみつかり、同市は13日、改めて現地を調査した結果、地元民の証言から、同実習場にはまだ約700人もの遺体が土葬されていることがわかった。近く発掘、慰霊祭をしたうえ、平和記念公園の原爆死没者供養塔に合葬する。
似島は同市宇品町沖2キロにあり、20年8月の被爆後間もなく被災者が旧陸、海軍、警察、民間などの船で運ばれ、同月25日までに計1万人が収容され、このうち7千ー8千人が死んだ。遺体は同島東大谷地区の火葬場と、馬匹検疫所の2カ所で処理、同検疫所が構内に“千人づか”を設けて仮埋葬し、さる30年、同市中島町の平和記念公園にできた原爆死没者供養塔に移された。
広島南署の調べで、被爆当時、旧陸軍船舶所(広島)に勤務、被災者の輸送に当たったAさん(住所・氏名・年齢は引用者の判断で省略)が「現場に700人の遺体を埋める作業を手伝った」と証言、市が地元民に確かめた結果、事実とわかった。
埋葬地点は、同中学校運動場(約3万平方メートル)南東の約500平方メートル。当時被爆者救護所にあてられていた同検疫所で死んだり、遺体で運ばれてきた犠牲者のうち、燃料不足や旧軍人の復員などで、処理しきれなかった700体を、4むねあった馬小屋の間に、10数か所の穴を掘って埋葬したらしい。
現在は荒れ地になっており、護岸工事のための作業小屋が建ち、石や砂などの材料置き場になっている。市は県に護岸工事を中止してもらい、近く遺体を発掘する。(引用おしまい)
大阪万博を終え、日本と日本人が高度経済成長の美酒に酔っていた、まさにその時代のニュースです。後の報道によると、推定610余人の骨が出土したそうです。忘却された戦後20余年を地中で過ごし、戦争のむごさを訴えることもかなわず、やっと掘り出されても、だれとも知れぬ骨片の小山として供養塔に納められる。
手打ち式であるミズーリ号での降伏調印をもって全てが終わるわけではない、戦争の罪深さがにじんでいます。
私たちには等しく、審議中の法案を、似島からの眺望をもって見つめてみる態度が必要なのだと思います。