小津さんは低くつぶやくように、「映画はドラマだ。アクシデントではない」といわれた。そして、眼を開けられると、小津さんは吉田監督のほうをご覧になり、「映画はドラマだ。アクシデントではない」と、同じことを繰りかえすようにして話された。吉田監督が小津さんの顔を覗き込むようにしてうなづくと、ふたたび小津さんは眼を閉じられてしまった。(引用おしまい)たとえ、パニックやホラーといった偶発的要素を伴う映像作品であっても、映画の基本は人間のドラマでなければならぬという小津の言葉は、制作者にも観客の側に対しても、大切な一言だと思います。
「花燃ゆ」は違います。まずはアクシデントありきで話を進めようとします。事故(アクシデント)に継ぐ事故を起こすことでストーリーを毎回こねくり回そうとするから、ドラマ全体が事故でしかなくなる。場当たり的なアクシデントを重ねて45分をしのぎ、次回には別の荒唐無稽なアクシデントを山盛りにしてごまかそうとするもんだから、いつもいつもが「事故大河」になるのです。脚本家の無能が原因とはいえ、その選定はチーフプロデューサーの引責です。脚本家の馘首はニュースで流れましたが、制作責任者は今後も大奥スカタンドラマにかかわり続けるそうで、重畳至極です。いい組織ですね。
第30回「お世継ぎ騒動!」(なんて話だ)を見ましょう。松島剛蔵を入牢させる描写、要る? 視聴者の何%が今さらこいつを覚えているというのか。さっそくアクシデントを積み上げ始めます。
おはぎ作りもアクシデントですね。朝敵となった長州への討伐軍の進出図を、もう何度目かというぐらいしつこく見せられているのですから、視聴者はそこがどうなるか知りたいわけです。お米をつぶして餡を練るシーンなんか、「きょうの料理」で教えてくれればいいだけの話で、ドラマではないんです。アクシデントですらない、ただのノイズ。
不妊家庭の問題は、現代でもいろいろあるわけですが、松坂慶子さんが「7年も子が生まれぬ」云々と言うのは、そういった家々に対してどうなんでしょうね? 最近は経済状況も含めて、産みたくても産めないファミリーが増えていると思えるのですが。江戸時代の大名家では大事だから、そこ限定なんてエクスキューズ抜きでも放送して良いものかと倫理観を疑います。後の場面での銀姫による「子のない私は、ここでは人ではない」というセリフも無神経ですね。
「存じませぬ!」で始まる、例によって唐突な小田村伊之助シーン。モンティ・パイソンのコントに「まさかの時のスペイン宗教裁判」というシュールネタがあるんですが、最近の小田村登場場面はあまりに無意味なので、このコントに脳内変換することで流しています。赤い服を着たトンチキが突然に現れては、数を数えられない意味不明の言葉を並べるというヤツ。
「まさかの時の小田村伊之助! 我々の武器は二つ! 志、至誠、攘夷。いけね、三つだ。やり直し。我々の武器は三つ! 志、至誠、攘夷、孝明天皇への忠誠。ああ、間違えた……」。大沢たかおさんより、英国のコメディアンたちの方が上手いですが。大沢さん、芝居のレンジ狭いよ。
「どこまで幕府の機嫌を取れば気が済むのか!」。劇中で機嫌取るとこ、視聴者に示してえな。このザマだから、ますますリアリティをなくして、まさかの時の小田村伊之助に成り下がっているんじゃないの。
高杉邸に押しかける元塾生ら。言ってることは完全ないちゃもんです。休戦講和の藩の決定を高杉の独断だと私憤にかられているわけです。こんな奴らが明治政府の中枢になるんですよ。誤解であれば、その誤解を生むエピを提供しなければ、連中は馬鹿のまま維新を迎えるハメになります。
高杉の嫁のセリフ回し、NGにして撮り直してくれや。「AKB SHOW!」のコントか。この人、アイドル、女優? いや、彼女に限らず、本作の役者ほぼ全員の芝居の呼吸が、一本調子であることに今回気づきました。息の継ぎ方が短くて同じなの。キャストはこぞって、「俳優のノート」(山崎努著、メディアファクトリー)読んで勉強しろ。こんなこと、素人の視聴者に指摘されてどうする。
よせばいいのに、鷲尾真知子さんに新たな菓子作りを提案する主人公。ここでの井上真央さんが、芝居を投げているのが気にかかります。僭越ながら、だれもお力になれぬほどいい加減。
ここから姫のパティシエ話メインです。げんなり。幕軍はさっさと攻め入れよ。勅書したはずの孝明天皇、「花燃ゆ」では人望ないなあ。細かいことですが、銀姫の衣装、場面ごとで季節感バラバラと違うか? 大奥関係の歴史ムックなんか見ると、その辺かなり厳しいみたいですが。
あんこ作ってきゃあきゃあ騒ぐ姫君と側女たち。幕軍が迫る最中、その元凶となった久坂玄瑞の話題を出すかなあ。「(餡を夫が)食べたら何と申したでしょうねえ」とヒロイン。おにぎりの他に、甘いもんなんか食わせようとしたっけ? 「俺は生きたど、お前も生きど〜!」くらいしか言えないと思いますが。
ここまでで、すでにお腹いっぱいなんですが、羊かんが出て参りました。かったるい音楽が、ヒロイン登場とともに消える緊張感の意味がわかりません。吉田松陰の墓前に羊かんを供える「大問題」でウダウダグダグダ。視聴者のほとんどは、もう松陰なんて忘れていますよ。松陰の存在がドラマからはずれて、アクシデントになっています。作劇のまずさが露骨に出ました。ここで兄貴の存在を再提出するなら、前回のリストラ寓話の際にでも提起しとかなきゃならなかったんです。何だかやっかむ江口のりこさんの表情。このショット、来週にだって絶対に回収されませんからね。それが花燃ゆクオリティ。
その後の杉家の場面、かーんぜんに要らない無駄でした。技術研究所の新開発カメラテストなんでしょうか、思いっ切り思わせぶりなスローショットで羊かんの箱を開けます。ここまでの展開で、そこに密書があろうかなどと邪推する愚かな視聴者など存在しようがないのに、しっかりやらかす高速度撮影。もうね、アホかと、馬鹿かと。
藩内のリストラで、どうやら獄吏もいなくなったらしい野山獄に小田村を訪ねる高杉晋作。その場で「幕府は遠からず崩れ落ちる」と、この時点でノストラダムス的大予言をかます小田村。来週から役名を「五島勉」に代えてほしいくらいです。「長州の手で雄藩を結び日本を動かす」とのフィクサー宣言も。そうか、明治維新は楫取素彦から始まったのか。もうむちゃくちゃでござりまするがな。
視聴者は、つかの間の歴史ファンタジーから
今日は、チーフプロデューサー(CP)の仕事に焦点を当てます。作品のテーマを決めて、スタッフ、キャストを差配するのはCPの巨大な権限です。「花燃ゆ」のテーマは何でしたっけ? 学園ドラマ、ホームドラマ、女たちの戦い、男たちの命懸け(番組パンフによる)が当初の主題でしたよね。今や、その残骸すらないわけです。能力に欠ける脚本家の斬首が決まり、猫の目のようにくるくる変わるドラマ制作を井上真央さんら、キャストはどうとらえているのでしょう? 主演女優とCPのコミュニケーションは、いまだに成立しているのでしょうか。
1970年代半ば、NET(現・テレビ朝日)は、ドラマシリーズ「名作劇場」の歳末を若尾文子さんに託し続けました。企画はすべて千野栄彦プロデューサー。1976年に作られた「冬の虹」放映を前に、同年12月5日付の読売新聞に両者の対談「二人だけの話」が掲載されました。少し長めですが、主演女優と制作責任者との畏敬し合う理想的な関係だと思われますので、引用します。
(前略)千野「ことしも“減量のシーズン”がやってきました(笑い)。若尾さんの仕事に入ると、スタッフ全員がやせる(笑い)」「花燃ゆ」のCPは、少なくとも「ガンコ者」ではありませんね。舞台をくるくる変えるんですから。坂本龍馬、沖田総司、乃木坂46、白石加代子、どぶろっく……。その場しのぎで1話限りのストーリーを投げ込む。配役は脚本家ではなくCPの裁量ですから、迷走の責任は他者にはありません。
若尾「機先を制せられちゃった(笑い)。そのセリフは私の方からさし上げたい」
千野「ボクは若尾さんにサスペンスを感じています。緊張感ーーほんのちょっとのミスを、あなたは見逃さない。その鋭敏さに、ボクは時々、居たたまれなくなるんです(笑い)。こんどのドラマでは、心の葛藤(かっとう)を描きます。この発想、わかっていただけますか?(笑い)」
若尾「私ってすごい女ですねえ(笑い)。でも、千野さんはドラマ以前のムードづくりがおじょうず。ヘンな言い方でごめんなさい。オセイジがまったくない人なのに(笑い)」
千野「すいません(笑い)」
若尾「うぬぼれかもしれませんが、期待を感じるんです。本心かどうかわからないけれど(笑い)。ねじりはち巻きでやることになっちゃう」
千野「そんな。人はわるくないですよ(笑い)。若尾さんとは3回目のお付き合いですが、この役をどう演じるかで、ボクなりに描いて、さてスタジオに行くと、こちらのイメージに何かをプラスして、さりげなく演技している。あなたは恐ろしい人です(笑い)」
若尾「テレビの皆さんに誤解されると困るんですが、演技を必要としない“場”があるんです。素(す)のままがいいときもあるんですよ。反対に“名作劇場”は、演技が求められる数少ない職場になりましたね。うぬぼれもあるし、“女優らしく”というのはわるくないですよ(笑い)」
千野「たしかに、俳優の柄(がら)だけでもたせるドラマがあってもいい。ボクには水と油だけれどーー。失敗も多い。でも、視聴者の方々には“テレビの前に座って御覧ください”と言えるドラマをつくっているつもり。金魚やネコだけが見ているドラマはつくりたくない(笑い)」
若尾「それだから私がやせるんですよ(笑い)。こわいーー。先だって日生劇場(10月公演・「十五夜物語」)に出ていて、見に来た友人からこんなことを言われました。四つ芝居をする部分があるとして、三つは何もしないで正面を向いていた方が引き立つ。でも、私は芝居に参加したいーー」
千野「プロデューサーはキャスティング、脚本までで、演出にかかわることができません。自分が描いたデッサンで、俳優が演技の火花を散らしたときに、うれしくなる。ひそやかに(笑い)」
若尾「出会いとは、何か一つ欠けてもすれ違いになるんでしょうね。私は義理とかでこのドラマに出ていませんし、仕事をして納得できたうれしさとの出会いを過去2回、“名作劇場”で経験しています。飾り物でなかったらしい、そんな自分だけの満足かもしれないけれどーー」
千野「それを聞いてこんどはボクがやせる番です(笑い)。つくる側としては、視聴者、出演者をひっくるめて感動を呼び込みたい。しかし、女性の人生を描くドラマをつくっていて、男のボクの気持ちは漠(ばく)としている。メドは自分の人生観。ごう慢にきこえたらかんべんしてください」
若尾「芝居している方も、同じようなことがいえるんじゃないかしら。自分のこと、一瞬の燃焼が演技のメドですよ。お客さま(視聴者)を考えて計算できません。けっしてお客さまを無視することではないんですけれど」
千野「だから“ムード・ドラマ”で逃げることもボクにはできない。古いかもしれないが、手法として正攻法しかない。これがボクのドラマへの感じ方なんです」
若尾「テレビに出はじめのころ、仲間の一人がこんな話をしているの、耳にしたんです。“テレビって持参するもの、得るもの、何もない”。そんなこといったら、どんな仕事でも収穫ゼロですね。感じ方一つで、いい体験が生まれます。1年たって千野さんが、どんな感じ方を見せているか、それを知るのも楽しみ(笑い)」
千野「十年一日のごとし。変わりませんよ(笑い)。タレントじゃない、“女優”に出てもらうーーこの点でもガンコらしい。AD(アシスタント・ディレクター)に、趣味が偏っているって注意されたりします(笑い)」
若尾「私が俳優になったのは、他人の人生を芝居の上で経験したかったから。でも、どうしてもダメなことは、本能的にわかるんです(笑い)。体質化した生き方かもしれません。ご同様、ガンコ者なんですよ(笑い)」(引用おしまい)
本作のCPと千野Pとを比べてみましょうか。「メド」という言葉に注目します。千野Pはそれを「自分の人生観」と表現しました。「花燃ゆ」がCPの「人生観」でできているとしたら大笑いです。それでは、CPの価値基準は何なのでしょう?
千野Pと若尾文子さんとの仲良くしながらのプロ同士の緊張感が、視聴者には心地よいですね。「花燃ゆ」CPは、井上真央さんとどれだけの作品への価値観を共有しているのか。低視聴率を糾弾された井上さんがメディアの矢面に立つ哀れな報道はされても、CPがかばって出る場面はありません。内容がアクシデンタルなだけでなく、現場の人間関係もアクシデント続きなのではないか心配になります。
「花燃ゆ」が、岡田茉莉子さんや小津安二郎に比するレベルでないことは承知の上で、小津の言葉を繰り返しておきたい。「映画」を「映像劇」と代えてみます。
「映像劇はドラマだ。アクシデントじゃない」