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2015/07/05

「花燃ゆ」第27話感想「つまらんいさかい」

映画「悪党に粛清を」を鑑賞。デンマーク製西部劇だという以外の予備知識なしに劇場へ足を運びましたが、これが思わぬ拾い物。
美しい画面、ペラペラしゃべらせず抑制されながらも伏線がしっかり引かれ人物の行動原理が明確な脚本、アクションか学園ドラマだか不明なドッカン芝居が主流のどっかの国の“俳優”と違って簡略化した表情で活劇を進める演技陣。キワモノのダニッシュ・ウエスタンだとナメてかかったら、めちゃめちゃ面白かった。名優ジョナサン・プライスが楽しげに小悪党やっとる。サッカー元フランス代表のエリック・カントナの悪役が板についていたのが笑えました。
マカロニ監督セルジオ・レオーネのウエスタンブーツ・フェチ画面、黒澤明の「用心棒」で宮川一夫カメラマンが撮った床下脱出シーンの再現など、過去の傑作へのオマージュ満載です。ヒッチコックの「サイコ」でバーナード・ハーマンが使った弦楽劇伴まで流用。この連中、どこまで映画好きなんだ。
1864年の舞台設定で、ラストシーンに時代の転換期を暗示させた点も秀逸。映像劇への愛情にあふれた一作でした。エンドクレジットが終わるまで、ほとんど客が席を立ちません。いい映画とはそういうものです。ダサい邦題が残念。邦題以外はオススメです。
奇しくも「悪党に粛清を」と同じ1864年の「蛤御門の変」で始まった「花燃ゆ」第27回「妻のたたかい」。久坂玄瑞は敵兵が目の前にうじゃうじゃいるにもかかわらず、目をつぶりうつむきます。サッカーPK戦最後のキッカーみたいで場違い感ダダ流し。鉄砲隊の伏兵がいるのに初手から白兵戦を挑む頭の悪い守勢のおかげで、長州軍に見せ場らしき場面がありました。実戦ではあり得ませんけどね。
抜き身を杖に、公卿の家の廊下にガスガス傷をつけながら奥へ進む久坂。戦闘で鞘をなくしたのかとよく見たら、腰に差しています。抜刀したまま上がり込む家は、敵の宅だって意味ですからね。こりゃだれだって怒りますよ。
久坂の「元徳様が京へ入らぬよう、お止めしてくれ」のセリフ。国語力テストの時間です。この敬語のどこがおかしく、恥ずかしいのか答えなさい。
自決の決意を口にする前に、妻を思うシークエンスを全く入れなかったのは失敗でしょうね。萩を出る時から最期まで、まことに手前勝手な男にされました。殿様の嫡子の上洛を止める使命を帯びながら心中を申し出、受理される寺島忠三郎も奇怪な死を遂げるハメになります。言った端のセリフがどんどん整合性を崩していくのが本作のお約束とはいえ、「日本のため」「長州のため」の生き様が、「いかに劇的に死ぬか」に変換されつつあります。死を選ぶキャラクターにはよほど重大な動機を与えなければ、登場人物の自死が作品の自殺となることを脚本家は学ぶべし。
寺島のわがままのせいで、元徳の元へ急ぐ志士は3人から2人に減員。大ピンチで品川弥二郎に代わって自ら槍の餌食となる入江九一。なでしこジャパンのゴールを守る海堀あゆみ選手ならスーパーセーブですが、多勢に無勢の戦場の真ん中を、刀も抜かずに跋扈する奴を武士とは呼べません。毛利家の大事にあって、欠員が一番のダメージ。品川はよく1名で脱出できたもんです。どこかの時空ジャーナリストが時代に干渉でもしてくれたのでしょうか。
テレビドラマで鮮血をジャブジャブ流すわけにはいかないから、入江は無血で死んでいきます。それなら頸部への斬撃なんか描くなって。大出血しなきゃ不自然でしょ。「悪党に粛清を」でも多くの人死にが出ますし、流血も最小限度に抑えていますが、人殺しを映す場面と、直接的に映像にせずに演出で暗示させるとこを使い分けていましたよ。ほら、死ぬんだぜ的な演出は雑だし、視聴者の想像力をナメきっているようで面白くありません。
「俺は生きたぞ。お前(文)も生きろ」なんて支離滅裂な言葉を残し、久坂玄瑞は寺島と刺し違え。光明寺党も何もかも投げ散らかしてのあの世行きでした。こんな久坂の描かれ方で、東出昌大さんは不遇でしたね。次回は本物の俳優として見たい。お試し期間は終わりです。
この間、おびただしい数のスローショットが垂れ流されます。もう苦言を呈するのも無駄でしょうが、これが本当に効果的だと思っているのか。技術が開発したカメラのテストを本番で繰り返しているかのようです。ここでも視聴者不在。
「久坂家」なる、全く不要なテロップとともに、久米次郎が母に話しかけます。「何をしているんですか?」。ここで国語力テストです。江戸時代において、こどもが親にかける言葉としてふさわしい敬語に書きかえなさい。
野山獄では、佐藤隆太さん渾身の間で久坂の死亡通告。高杉晋作は、ぎゃあぎゃあわめくだけのエセ国士です。もうね、この作品での高杉は、ヒロインと一、二を争う愚キャラに成り果てています。脚本の大島里美さんが高杉晋作という人物に魅力を感じていないのでしょう。主要人物が単細胞ばかりで、騒いだり泣いたり笑ったり。百貨店の屋上でやっているこども向けの着ぐるみ劇に近いと感じるのは失礼ですかね。少なくとも「おかあさんといっしょ」のポコポッテイトの方が、よほどキャラクターが練られていると感じますよ。
このあたりから、ヒロイン文の様子がおかしくなっていきます。家が廃され、借家を取り上げられた文は、冒頭に初めて出してきた茶碗が割れているのを見て、不穏な表情を浮かべます。こういう安っぽくてイージーな手口で伏線でございと言われたら、もう腹も立ちません。そこに現れて脈絡なく孟子をそらんじる息子。ホラーの予感です。視聴者にその意味を伝える意図もないからテロップもなく、こどもの声がただ、とうとうと聞こえてきます。ここでの井上真央さんの表情がちょっと良いのですが、こどもを抱きしめる瞬間をなぜ、お尻の側からロングで撮る? 役者がノッてるんだから、ワンカムで引っ張り続けるなど、工夫次第でその魅力を引き出せたでしょうに。もったいない。
椋梨家にたどり着いたヒロインは、完全に狂っていました。「久坂家をなくされては困る旨、重役に取りつげ。親子3人で暮らすと夫と約束した。家がないと困る。死者に怒られてしまう。息子は孟子を父に聞かせると言っている。だから、取りつぶさないで」
人物造形、もうめちゃくちゃ。スティーヴン・キングの小説に「ミザリー」という傑作があります。ひいきの作家を拉致して暴力によって無理矢理に小説を書かせる、アニーという狂女が出てくるんですが、文の狂い方がその女にソックリ。「あなた様ですか、あの人をこねな目に遭わせたのは?」といちゃもんをつける文。井上さん、狂女の演技プランとしては、あらかた合っていると思うけど、ヒロインとしてこれでは……。雨に打たれ、地べたを叩いてキーキー泣き叫ぶ主人公は、もはや久坂文ではなく、モダンホラーの大家が創造したアニー・ウィルクスその人でした。嫌われ者レースで再び高杉に水を開けましたね。
視聴者の共感は、ますます椋梨夫妻に向かいます。若村麻由美さん、色気あるなあ。朝ドラヒロインで出てきた頃は、入浴シーンですらイロケのイの字も感じられなかったのに。椋梨は、その場で無礼討ちにしなかった度量の大きさが素晴らしい。この2人中心で残りを踏ん張っていただきたいものです。
藩を朝敵にした張本人の妻に次々と面会を許す長州人は、寛容の精神に満ちています。大罪人の嫁、かつ精神的にかなり不安定な女性を奥に迎え入れる決定がなされたところで、次回から「大奥編」。「江〜姫たちの戦国〜」の着物ショー要素を加え、怪獣キメラ、妖怪ヌエに変貌しそうな「花燃ゆ」には、家族みんなでほいほい会いに行ける奥が現出するのでしょうか。
「幕末男子の育て方。」に始まって、迷走に迷走を重ねた末に、ワラをもつかむ思いで流れ着いた「大奥」。ワラはしょせんワラでしかないんですが、ともかくテーマらしきものが、男子育成から女の園への大転換。こんなの、売りどころを宣伝のしようがありません。良い映像作品は宣伝マンも楽だし、逆に駄作には手のうちようがないというのは古今を問わず同じです。今日は1961年12月6日付の読売新聞への大映プロデューサー・松山英夫の寄稿「映画と宣伝36」から引用します。
(前略)作品が決まると、各社ともそうだと思うが、撮影所と本社営業部の関係者が集まって合同会議を開く。この映画はいかに宣伝すべきかという根本方針の検討、具体案の研究、この会議で、いわゆるジャック(注・惹句。キャッチフレーズ)も決定されるのであるが、私の長い経験によると、作品の内容や訴求点がズバリとジャックに出てくるような映画は必ず興行的に成功している。その反対に、どうしてもいいジャックが考え出せない映画は、例外なしに失敗している。
そんな映画は、作品のテーマがハッキリしていないのである。極端にいえば、売るべきものがないのである。作品そのものに大衆の興味をひくものがないので、文章のつくりようがないのだ。
谷崎潤一郎先生の「文章読本」に「一番すぐれた文章というものは、もっともやさしいことばで、もっとも短く表現されたものである」と書かれているが、ジャックは、この“やさしく、短く”をもっとも要求されるものである。(引用おしまい)
来週からの展開については、「“大奥編”、いよいよスタート!」と盛んに言われていますが、これは惹句ではありませんね。またも惹句が付けられないような中身なのでしょうか。
「花燃ゆ」ファミリーは一族郎党引き連れて、公開中のデンマーク映画を見に行きましょう。映像作品を作る上での技術、演技、そして仕事への愛情がこもったお手本がそこにあります。