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2016/10/03

「真田丸」第39回感想 「歳月視聴者を待たず」


「直虎」が来るぞ!


朝の連続テレビ小説「ごちそうさん」の再放送が、3日からBSプレミアムで始まります。大河ドラママニアを自任する皆さん必見です。
喜怒哀楽を毎度露骨に表すのが身上の主演カップルによる壮絶な脱線芝居。茶の間にいる人物全員をドリフの公開収録コントのごとく手前から撮り続けるか、セリフのある役者を交互にクローズアップにするしか能のない平坦極まりない演出。同じ場面でカットごとに太陽の位置が変わる照明、無意味なお笑い芸人による延々のカメオ出演(しかも面白くない)等々。ドラマ制作現場の学級崩壊ともいうべき恐ろしい朝が半年間続きます。前作の「あまちゃん」のヒットが思わぬ音楽印税収入を放送局にもたらしたせいか、作品世界を壊してまで登場人物に妙な曲を歌わせて二匹目のドジョウを狙った節もありました。「真田丸」で本多正信を演じる近藤正臣さん、一つのダイアローグにつける緩急の技では名人の域に達しつつあるキムラ緑子さんらが出演していてもお手上げ。
この駄作の駄作たる主因は脚本と、何にもしなかった制作責任者にありますよ。自分の利益のためなら犯罪(窃盗等)を犯しても恬として恥じないヒロイン、老人の茶に大量の食塩を投入するクライムドラマ並みのモラル破たんなど、ゲスの極み名場面もろもろは枚挙にいとまがありませんが、最大の問題は、明治から戦前戦後の世相・歴史への敬意が作中皆無であるところでしょう。
庶民困窮のさなかに巨大牛肉ブロックを担ぎ込んでビフテキ祭りを開催、周囲に配って人心を得ようとしたり、実際には多数の餓死者も出た焼け野原の大阪で高級食材食い放題のビストロを主人公が経営したりして、戦争体験者にケンカを売らんかというエピソードがてんこ盛りでしたし、大正編においては、史実では摂政宮裕仁(昭和天皇)の結婚の儀の日取りが発表され、大阪市を挙げての提灯・旗行列が繰り広げられたはずの晩、家族団らんの場で「静かやなあ」なんて俳優に言わせる。現在の日本社会ある礎たる近代史に興味を持たない、歴史を学ぶ、歴史に学ぶつもりがない作家に歴史ドラマを任せてはならない教訓を痛感させられた一作でした。
しかし、大河ファンなら、この150回の無間地獄を、泣きながら鑑賞せねばなりません。来年の「おんな城主 直虎」の脚本家とチーフプロデューサーは、「ごちそうさん」コンビの持ち上がりなんですよ。人間は成長する生き物ですから、「直虎」が傑作になる可能性もあります。そう信じたい。一方で、「江」や「花燃ゆ」を周回遅れにするほどの阿鼻叫喚の1年間を味わうリスクを視聴者は抱えています。免疫をつけておくためにも、みんなで「ごちそうさん」視聴ゲームへの参加をオススメします。既にまるまる見ちゃった人間としては、そんなクソゲーのプレイから降りますけどね。
だからこそ、失速中の「真田丸」には踏ん張ってもらいたい。とうに「大河」とは呼べないんだけど、日曜午後8時に放送する一級の映像劇としての粘りに期待して、第39回「歳月」を見ることにしましょう。

いっそ「黄金の日日」にするか


真田信繁、貧乏してるんだよね。食うに困ってるんですよね。だったら、その貧窮を描こうよ。2坪ぐらいの家庭菜園に水引いて日々の食事の足しにしています、なんて描写が視聴者を納得させられるか?
和歌山の山中での信州蕎麦の実演販売とその失敗に尺を割くのもどうよ? モチベーションなくば人間は生き死にの正念場へ動きません。徳川への怨嗟、豊臣への忠義といった、来たる大坂の戦いにおける「真田の動機」を提出しておかねば、大坂の陣自体がドラマの予定調和でしかなくなるんですよ。前回、真田昌幸の死に際し、その辺を整理せずにみすみす犬死させたツケだとも言えますね。まさか、こんなシーンのために関が原の戦いをスルーしたんじゃないよね。
相変わらず、戦国女子が入れ代わり立ち代わりカメラの前を出入りするんだけれど、だれしもが行動の動機を持っていません。唯一言動の理由らしきものが、信繁の正室の「悋気」だというのも残念な中身です。主人公はいっそ和歌山を飛び出して、側室だった豊臣秀次の娘と一緒に東南アジアに活動拠点を移し、呂宋助左衛門と名を変えた方がこの消化試合、面白くなったかも。ストーリーは安定の城山三郎に変わるし、いいんじゃないかな。
今回の見せ場と呼ぶにはあまりに寂しいけれど、真田紐がめでたく商品化されたエピソードが“クライマックス”。小金が入った途端に鮮魚をはじめとする贅沢な食材を買い込んで宴を開くあたり、主人公が権力者徳川家康に立ち向かった薄幸の英雄像ではなく、堪え性がなくあさましい貧乏人に見えてしまう情けなさを感じました。カネがないくせに、本能に任せてしょっちゅう豪華な食卓を開陳するバカドラマにそっくり。興味がある視聴者は、「ごちそうさん」の再放送を見ましょう。
「歳月」は結局、九度山での歳月を無為に過ごした牢人某の、出来の悪いプロモーションビデオでしかありませんでした。ひょっとして、今から「おんな城主 直虎」の番宣を本編でやっているのか。
こじつけじゃありません。今日からスタートする「ごちそうさん」全150回を欠かさず見て下さい。苦行に耐えた人間として断言します。「歳月」は、「ごちそうさん」そのものでしたよ。

新聞で言い訳?


関が原の描写すっ飛ばしについて議論百出した件について、作者の三谷幸喜さんが新聞の連載コラムで意見を述べています。9月29日付の朝日新聞夕刊「三谷幸喜のありふれた生活」から引用します。
(前略)確かに関ケ原の戦いの直接的描写はありませんでした。でも、それはこの「真田丸」という作品の特徴でもあります。主人公の真田信繁が見たり聞いたりした事以外は、極力描かない。それが僕の決めたルールです。それによって、戦国時代の空気感をリアルに表現したかった。
(中略)今回描かなかった部分はぜひ、皆さんが想像で補って下さい。それが出来るように、計算して物語を構築してきました。小早川秀秋の裏切りに怒る石田三成の姿も、冷静に自体を捉え、そして死ぬ覚悟で秀秋軍に突っ込んでいく大谷刑部の勇姿も、皆さんが頭の中で用意にイメージ出来るように、これまで細かく細かく、彼らの描写をしてきたつもりです。
ミニ関ケ原というべき「伏見徳川邸襲撃未遂事件」を丹念に描き、石田三成と大谷刑部の友情も、戦が始まる前にクライマックスを迎えさせました。これほど2人の関係を綿密に描いた作品も少ないのではないでしょうか。それもこれも視聴者の皆さんに、関ケ原そのものを観ずして、関ケ原を観た気分になって欲しかったから。
視聴者が想像出来るものは描かない、というのが、テレビドラマを書くときの僕のポリシーです。それは決して手抜きではありません。むしろ手は込んでいます。(引用おしまい)
何なんだろ、この主張? 何を指すのかよくわからない「それ」が多用されていて理解しづらい文章ですが、文意以上に論点がつかめません。本欄では、大河「赤穂浪士」のディレクターが批判に反論した事例を挙げて、テレビドラマ担当者が他媒体で主張するのはいいことだと言ってきました。関が原を入れるか、外すかの選択は作家性に委ねられるものであって、そのこと自体を問題にする必要も感じません。
でも、コラムをもって視聴者に訴えるのであれば、物語から関が原を排除してまで描きたかったことが何だったのかを説明するべきです。石田・大谷の友情が「それ」であれば、真田家を通した「戦国時代のリアル感」なる主題とは無関係となります。巷の批判に対するエクスキューズであるとしか読めません。構成・想像力の欠如の補助を視聴者の理解力に求める甘えではないでしょうか。

いつの世も視聴者は賢明


時代映像劇の観客(視聴者)は、再現される当時のアウトラインを把握した上で作品を鑑賞することが多いですね。史実の把握は大事だし、商品としては史実を踏まえた形で、時にそこからはみ出さなければ、歴史あらすじに終始した欠陥品となります。作家の視点とは、史実をとらえる主観と手法にあって、相半ばする大胆さと繊細な配慮の混交にこそ、プロの本領があると言えるでしょう。
テレビ時代劇全盛だったころ、玉石入り混じったブラウン管をにらんだ読売新聞記者の評論を紹介します。1964年12月16日付の同紙「茶の間席 歴史ものと史実」より引用します。
かつて、某作家が脚色者を信じて、自分の作品をテレビ化した時に、たくさんの視聴者から無責任を問われて、相当問題になったケースがある。そのとき“私の作品そのものを読んでから批判してくれ”といい放ったその作家の言葉が、いまだに私の頭に残っている。言い分はあろうが、テレビの前にすわる幾千万の視聴者は、いちいちその原作を読んでいるはずはないということだ。書物は高価だし、第一、大衆にそれを要求するのは無理だ。
(中略)私は“歴史もの”にケチをつけるものではない。著名作家が心魂を傾けて書かれたものであり、私もそのファンであるからこそいいたいのである。フィクションは、作家の自由である。しかし“歴史もの”の焦点は、史実にある。みえすいた脚色のやりかたはいやだ。
第一、原作を読まない視聴者だってある程度、それ以上の知識を持っている。史実というものの、かくされた真実をひとりよがりして押しつけられたとしたら、徳川時代のツジ講釈「さあさあ軍談だよ」といったふうにしか受けとれない。
そこで問題は、結局は脚色者の勉強ということだ。どこに“史実”をおくかが問題で、視聴者に甘える脚色は絶対に反対したい。(引用おしまい)
視聴者が馬鹿じゃないのは50年前も同じです。「ひとりよがりして押しつけられた真実」のどこが面白かろうか、「視聴者に甘える脚色」の那辺に時代の風を感じようか。
歳月人を待たず。1年などあっという間に過ぎていきます。「直虎」の翌年に放送されるのは「西郷どん」。作家村岡花子と歌人柳原白蓮の文学、時代における存在意義や女性としての生き方といった要素をすべて放棄、ヌルいラブコメに終始した朝ドラ「花子とアン」の脚本家の大河デビューとなるんですよ。
人間は成長する動物だとの希望的観測に賭けるしかない時局にかんがみ、「真田丸」には映像時代劇として安心して鑑賞できるレベルで何とか終わって、多少はまともなバトンを次走者に渡してもらいたいものです。