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2016/10/05

若手芸人よ、「笑けずり」を捨てよ町へ出よう

演出のないテレビなどない

NHK・BSプレミアムで昨年放送したお笑いオーディションバラエティ「笑けずり」は好評を受けて、現在「シーズン2」をやっています。出演がかなわなかった未来のお笑いスターを目指す全国の若い芸人たちが、中身を見逃すまい、聞き逃すまいと、テレビの前で緊張している微笑ましい光景が浮かんできます。
しかし一方で、彼らに勘違いしてもらうと困るのは、「笑けずり」は、しょせんドキュメンタリーの手法を使ったバラエティだということ。テレビには演出が付き物。そうしなければ、時間と費用がかかりすぎて番組が制作できません。シーズン1でも、審査員が“自分の言葉で”しゃべっている後ろにカンペ抱えたADが映り込んでいました。テレビには筋があるんです。すべてを鵜呑みにせずに、テレビを疑ってかかる目を育てなきゃ売れっ子にはなれませんよ。
ドキュメンタリーにしたって、必ず演出は存在します。空中の鳥が水面の魚を捕まえるシーンがスローで流れるのは動物番組の定番ですが、あれはスタッフがあらかじめ餌を仕掛けておいたところへカメラを向けているから撮れるんです。
元ドキュメンタリー制作者から聞いた話ですが、その昔ある集落が廃村になる日に現場入りしたテレビクルーは、故郷を離れる村民が涙を流さんとした途端、「ちょっと待って!」と落涙を制止。風がやんだところでADが周囲にスモークを焚きまくって風景を作り、ディレクターが先の村民に「さあ、どうぞ」と号泣を促したそうです。
ひどいでしょ。電波に乗るすべての事象を、お手軽に信用してはならない教訓的逸話です。知見をテレビのみに依存せず、世間を知り、人心を読む能力が備わっていなければ、人を笑わせることなんかできません。

Aマッソは利用されたのか

「笑けずり シーズン2」の前段として、8月26日に前シーズンの出演者の現在を紹介するプログラムが放送されました。気になったのは、準優勝したAマッソという女性漫才コンビの扱われ方。ツッコミ担当がバイトに精を出して生活費を稼ぎ、ボケは自宅にこもりきりでネタを書く姿を紹介するシーンに違和感を持ちました。
居酒屋で接客するツッコミ、「出演した番組が終わって以降、これだけのネタを書きました」とカメラに何冊ものノートを見せるボケ。これが演出でなく、リアルなドキュメントであったなら、この2人は芸人失格です。
お笑いのパフォーマーが、自らが苦労する姿を客(視聴者)に見せるのは厳禁。楽しく笑いに劇場にやって来る客が、舞台の芸人さんが生きるための副業を茶の間で目の当たりにし、ネタを作るために汗水垂らした情報を得てしまえば、ステージの笑いを純化して受け止めることができなくなります。笑いに厳しい明石家さんまさんあたりなら叱りつけるところ。同じような演出をしたフジテレビ「THE MANZAI」は、賞レースの価値を失って番組自体が消え失せました。テレビ局はまだ売れてもいない漫才師をもっと大切に扱っていただきたい。責任者出て来い!
第二に、こちらの方がより重要ですけど、ネタを書く人間こそアルバイトをすべきではないか、という問題。半径数メートルの世界観だけでこしらえたネタが、カネを払って劇場に足を運んだ多くの客に許容されるものか。観客は現実を生きています。どんなにぶっ飛んだネタであっても、そこに共感できる社会体験の裏打ちがなければ、大笑いすることはない。
Aマッソが尊敬しているらしい、笑い飯の単独ライブにはこの数年、欠かさず足を運んでいますが、途方もない発想の中に共有できる価値観があるから客席に爆笑が起きるんです。バイトをやって世俗にまみれ、世間を感じて、そこに笑いの価値を求めずして、何の漫才師か。何の庶民の娯楽か?
2人が大好きな笑い飯・哲夫さんは、大阪梅田の「揚子江ラーメン」でのバイト体験をネタに昇華しています。Aマッソも揚子江ラーメンで働け。東京に揚子江ないんか? ラーメン二郎でもええわ。まあ、この不労問題もホントは事実じゃなくて、ドキュメンタリー風に仕立てたバラエティ演出なのかもしれませんけどね。テレビ見る人はだまされちゃいけません。

人生幸朗から若手が学ぶこと

芸人にとって、社会性の欠如は致命的です。インターネット全盛の時代にあって、芸以外の部分、社会性に欠けた発言が命取りになることだって、このところままありますね。今日は、往年の漫才師人生幸朗の舞台から、その点について考えてみます。
人生幸朗は生恵幸子との夫婦漫才で一世を風靡(ふうび)した上方漫才史に残る名人の一人です。世相を巧みに取り上げてボヤき、「責任者出て来い」のフレーズで人気を博しました。放送作家新野新氏が1977年1月22日付の朝日新聞夕刊に寄稿した「寄席だより」から引用します。
(前略)「国鉄は一体何べん値上げしたら気ィすむんや。しかも何とサービスの悪いこと!!」
「あの切符の自動販売機は何や! 上の方に値段表が書いたァるから、私ら年寄りにはちっとも読めん!!」
人生幸朗がボヤき倒す。しかし、
「責任者出て来い!!」
「出てきはったらどないするのん」
「謝ったらしまいや」
--この愛嬌。これが上方芸人のみが持つ二枚腰のバネのしぶとさである。ま、縁台的世相談義であるが、同じようなネタを扱う東京の芸人に比べて押しつけがましさがなく、まったりとした楽しい芸になっている。
(中略)人生幸朗の舞台を見ていて、痛切に感じたことがある。--この種の漫才芸を引き継ぐ中堅、若手の芸人がなぜ出ないのか、と。
漫才はかつて、もっと、えらい人にケンカを売って来たはずである。たとえ次元は低くとも、体制や権力にタテをつく毒をふんだんにまき散らして来たものである。ところが昨今、この毒が全く見られない。ナマぬるいホームドラマのような漫才ばかり。--だれもかれもボヤけ、という意味ではもちろんない。それぞれのジャンルの芸の中で、いい子にばかりならずに、もっと毒を持つべきであり、しかもその毒をヌケヌケと愛嬌にすりかえるところに、上方芸人たるゆえんがあったはずである。
つまり、現今の漫才人からは、この毒-庶民のエネルギーがほとんど感じられず、従って観客も一向に、漫才を聞いてスカッとした気分になる、という事がない。--上方漫才衰退の原因の一つがここにもあると見る。もっとも、これらは芸人のみを責めるより、毒を極端にきらう放送局にも問題があるのだが--。
こういった現状では、人生幸朗は老いこめないはずである。明日の上方漫才への橋渡し役として、まだまだがんばってもらわねばならない人である。(引用おしまい)
シーズン1にも1カ所だけリアリティのある場面がありました。最終の決勝に残った2組ともがネタの途中で、最初の講師だった中川家に戒められた「しゃべくり漫才をギャグにしてはいけない」を守れず、ギャグに走ったところ。緊張が緩んで楽をしたのか、ネタ切れか。いずれにせよ、若いアマチュアであるがゆえの未熟さが最後に出て、ドキュメンタリー番組っぽくなったのはテレビ的には成功でした。でも、芸人としてはアウト。テレビに踊らされているうちは、無毒なアマちゃんです。
確かに人生幸朗のような毒のある漫才師は、とみに少なくなりました。政治風刺で大人気を得たコロムビア・トップ・ライトのような人たちも、これから世に出ないかもしれません。でもね、芸域を広めるために毒を持とうと努めるのは悪いことじゃありません。
フグの猛毒は外洋にあって毒物を摂取することによって蓄えられるそうです。養殖のフグは天然物より毒性が薄いんだと。家にこもって、テレビやネットの情報からネタを書いたところでロクな物にはならないでしょう。Aマッソも2人して働いて、余剰生活費で漫才見に劇場行ったらよろしい。他人の毒を、先輩の芸を吸収するんですよ。
将来ある若手芸人たちは、「笑けずり」にだまされちゃいけません。テレビはうたぐって見るものと心得て、「テレビを捨てよ、劇場へ出よう」。