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2019/10/22

即位の礼と沖縄観光

相良倫子さんの言葉

天皇陛下即位礼正殿の儀に、沖縄県から相良倫子さんが招待されました。昨年の沖縄戦没者追悼式で平和を希求する自作の詩を朗読した少女です。確信に満ちた口調で我が意を読み上げる姿を、YouTubeでも見ることができます。
でも、沖縄に行った経験がないと、相良さんの心はなかなか伝わりにくいのではないでしょうか。沖縄に対する多少の知識、または好奇心なくして、想像力はなかなか働かないものです。そこで拙ブログは若いみんなに向けて、戦争の歴史を知る沖縄本島見どころツアーを企画しました。沖縄旅行の機会があれば、親御さんに相談してみて下さい。観光産業が盛んな沖縄では、バスやタクシー、レンタカーなどの足が使えますが、このプランではレンタカーをおすすめします(理由は後述)。お父さん、お母さんに運転してもらいましょう。
島の北西部にある国頭半島には、世界遺産リストに登録された今帰仁城跡があります。丘陵地に石を積み上げて築かれた見事な建造物で、青い海の向こうに伊江島が見えます。平地の多い同島には豊かなサトウキビ畑が広がっていましたが、日本軍が飛行場用地としてほとんどを接収。そのため最初に米軍の激烈な空爆・上陸戦の標的にされたあげく、島民は日本軍の指導・命令による集団自決や女性に至るまでの敵陣突撃戦闘をやらされて、おびただしい血が流されました。
城跡見学の後は、敷地内にある今帰仁村の歴史資料館に行きましょう。城跡の入場券があれば無料で入れます。先史時代以来の民衆の暮らしが民具などとともに紹介されています。米国占領期が長かったこともあって、私たちは戦前の沖縄の庶民生活をほとんど知りません。土地固有の民俗があったのですが、戦争がこれらを破壊します。今帰仁村は米軍の攻撃のみならず、日本兵による「スパイ整理」名目の住民虐殺の憂き目に遭っています。
のどがかわいたら、大宜味村まで足を伸ばしましょう。ここの名産は、栄養たっぷりの果物シークヮーサー。入場無料のシークヮーサー・テーマパークもありました。おいしいジュースを飲みながら、戦争時の同村に思いを巡らせましょう。ここでも、日本軍の敗残部隊が女性たちを中心とした村民を銃や手榴弾で虐殺しています。相良倫子さんの詩のフレーズ「戦力という愚かな力を持つことで得られる平和など、本当はない」の証明です。軍隊にとって住民保護は、作戦行動の第一義ではないのですね。
小腹が空いたら、浦添市のアルゼンチン料理店「CAMINITO」はいかがでしょう。移民としてブエノスアイレスに渡った後、故郷に戻って店を開いたおばあちゃん手作りのエンパナーダ(具入りパン)やチュロス(揚げパン菓子)が絶品。おばあちゃん、日本語が通じますが友人が来店するとスペイン語に切り替わります。沖縄が戦後の南米移民数ナンバーワンなのは、地域がそれだけ貧しかったからです。生きるため、外に出て行かざるを得なかった。南の島で食べるアルゼンチン料理には、そんな歴史の味も含まれています。

辺野古に行ってみる

島を横断して東岸の辺野古を目指します。相良さんが「この青に囲まれた美しい故郷」とうたったブルーの海は沖縄の象徴的環境ですが、辺野古に入ると様子が一変します。湾の海水は赤茶けた泥でにごり、不愉快な風景を観光客に提供します。私たちは日本人ですから、安全保障問題の最前線を確認するに越したことはありません。嫌なら見るなというわけにはいきません。基地建設予定地に行きます。ここへはレンタカーがオススメです。左手に米軍のキャンプシュワブのゲート、右に建設反対派の急造施設を見ながら、ゆっくりと坂道を下ります。私たちは観光客ですから、写真は撮らない方が無難です。だれかがレンタカーのナンバープレートを記録しているかもしれません。私服のお役人が後をつけてくる危険をおかさないよう気をつけて下さい。
坂を下って左に曲がると、さびれた歓楽地跡があります。かつてはキャンプの米兵相手に羽振りの良かった地域。戦争景気が去るともの悲しい風景に変わります。ここでUターン。速度抑えめにして坂道を上っていくと、左手に居座る反対派の人たちが手を振ってくれます。ごく普通の人なつこい地元のおじさんやおばあさんです。ネットデマに登場する反日パヨクなんかじゃありません。自分の目で現場を見る、経験するという行動は、ネットにだまされないための大事なファクターです。ここに行くには、レンタカーしかないだろうな。

不発弾の危険

ホテルに着いたら、テレビで夕方の地元ニュースを見るのも一興です。辺野古の新基地反対運動参加者が検束されるニュースが、たまに流されます。本土ではいっさい伝わってこない沖縄の“リアル”。
不発弾発見の報道も頻繁です。米軍だけでなく、日本軍の爆弾も顔を出します。6月には、こどもが拾ったサビサビの手榴弾を遊び道具にして、あわや大惨事というニュースもありました。沖縄県内の不発弾完全処理には、あと70年ほどかかるそうです。沖縄戦自体は3ヶ月くらいだったのにね。
本土に暮らす私たちは、そんな県内の状況に無頓着であり続けました。ですから沖縄の平常化は遅々として進まなかったのです。1975年、沖縄の経済支援策として海洋博が開かれました。当時の読売新聞の社説が、博覧会に合わせて不発弾問題を取り上げています。同年6月28日付の社説「沖縄は不発弾の上に眠っている」から引用します。年号は昭和です。
(前略)戦時中、本土防衛の決戦場となった沖縄は、10数万の県民と10万人の兵隊を失った。3.3平方メートルに数発、といわれる爆弾、砲弾が撃ち込まれ、そのすさまじさは“鉄の暴風雨”と表現されている。総理府の推定では、総量9万4千トンといわれるが、このうち、7800トンが不発弾として、地下で不気味に眠っているという。
昨年3月、那覇市で下水道工事中、爆発が起こり、4人死亡、30人近い死亡者を出している。最近でも、小学校そばの密集地で電柱取り替え工事中に発見され大騒ぎとなった。不発弾処理場の不足などで、機関銃弾なども含め、届け出のあった千余発も未処理のままだといわれる。
政府は、50年度から1億3千万円の補助金を出すことになったが、作業はまだ軌道に乗っていない。沖縄では、学校、病院をはじめ、公共施設を急速に増やさなければならないが、まず不発弾の探査や除去から、ということになると、手間も費用も大変だ。第一、危険な場所の家屋の移転などを考えると、少々の補助金ぐらいではやっては行けまい。
(中略)民間資本を含め、5千億円も投じられたという海洋博は、開発による自然破壊、インフレ高進など、マイナス面もあっただろうが、復帰ショックをやわらげ、沖縄経済に役立ったことは事実である。
しかし、なぜ不発弾のような人命にかかわる戦後処理が、海洋博の試みに先駆けてもっと積極的にやられなかったのだろうか。全島を血潮に染めた沖縄戦闘が終結してから満30年。本格的な不発弾退治の大作戦の展開を望みたいと思う。(引用おしまい)
44年前からほとんど前進していない不発弾処理の現状にあぜんとします。沖縄の人たちからすれば、「周知の事実を何も知ろうとしてこなかった本土の人間が何を今さら」と感じるかもしれません。
天皇の名の下に、米軍に殺され、友軍に襲われ、国体護持のために本土再独立の人質として米国に売られた沖縄。新天皇即位を、私たちと同等の安全と権利が保障されるよう本土の市民も考える機会にしたいものです。
相良倫子さんの詩は「私は今を、生きていく」と締められています。沖縄人が独りでなく、本土に暮らす人間たちを同胞ととらえて、「私たちは、生きていく」と言ってくれるようになってほしいものです。