竹宮惠子「風と木の詩」の生産性は?
「風と木の詩」第3巻(eBookJapan Plus)より |
しかし、もしも「杉田水脈文部科学大臣」なんて悪夢が現実のものとなったら、その扱いがどうなるものやら、と妄想してみましょう。
お役所から「『風と木の詩』には生産性がない」と決めつけられてコミック書店が迫害を受ける。頭のおかしな評論家がしゃしゃり出てきて、「『風と木の詩』を認めるなら痴漢の触る権利も保障しろ」などとわめき散らす。
作品を読んだこともない杉田推しの暴発ネトウヨどもが「(登場人物の)セルジュとジルベールはコミンテルンだ!」等のデタラメを脅迫電話やメSNSで拡散、竹宮さんに関わりのある教育機関へ電凸をかける。従軍慰安婦報道を担当した元朝日新聞記者の勤務する学校が、陰湿なウヨ電の集中攻撃と脅迫を受けた事件があったでしょ。
大学法人には、文科省が補助金交付の打ち切りをちらつかせて圧力を加える。
「作中人物に使用される“敵性語”と同一であるセルジュ・ゲンズブール、ジルベール・ベコーらの歌舞音曲は、日本国内での販売並びに放送禁止に処する。以上、文部科学省令である」なんてね。
以上、すべて根拠のない妄想です。でも、文化統制の暴走とは、えてしてこんなものじゃないでしょうか。
内務省の漫画統制
「杉田水脈文科相」。ありっこないですか? いやいや、今現在の文科相はアタマの中身がほぼ杉田レベルの萩生田光一氏。このところの日本の常識では、いつ杉田大臣に交代してもおかしくありません。その萩生田大臣は、表現の不自由展の少女像がネトウヨ案件になった「あいちトリエンナーレ」への補助金交付をやめるという憲法21条(検閲の禁止)違反をやらかしました。芸術展を中止しなければ会場にガソリンやサリンをまくと、愛知県を脅迫した事件の加害者側に国が寄り添い、被害者である展覧会開催者を痛めつけるものです。国民の自由な表現活動の萎縮を狙った、えげつない判断です。まるで戦前のようですね。
当時の大日本帝国では、あらゆる文化活動が検閲を受けました。今の文化庁の役割を担っていたのは、内務省警保局です。内務省は、特別高等警察(特高)を使って国民の思想統制にまい進した全体主義の走狗でした。敗戦後すぐに解体され、大方の国民が快哉を叫んだ、非人間的セクションでした。検閲統制の眼は、こどもたちが大好きな漫画にも及びます。
1939年、「のらくろ」の田河水泡、「フクちゃん」の横山隆一らが日本児童漫画家協会なる団体を結成しました。これは内務省が検閲を一本化するためにつくらせたもので、検閲を担当する警保局図書課の係官が、同年4月11日付の東京朝日新聞「児童マンガの昨今」で、検閲の基準を美辞麗句にまぶして説明しています。同記事より引用します。文中ゴチック体は紙面に使用されているそのままの箇所で、引用者が手を加えたものではありません。
子供のための漫画は明朗で、健康で、教育的であってほしいのです。当局が俗悪なる漫画本など発売を禁止する等、厳重な取締を行って来てから、子供の漫画もやうやくよくなって来ました。作品のテーマ、表現、描写から彩色に至るまで当局が検閲するから、母親は安心して思考停止して、統制下の帝国検閲漫画をこどもに買い与えろと国家が言っているわけです。
動物の世界を人間化したものでも健康ならよろしい。支那事変や、軍事物など軍当局とも協力して取締って居ますが、皇軍の威信を傷つけるやうなものもなくなりました。
ただ支那人をひどくけなしつけるものが多いのはいけません。彩色もあくどいものがすくなくなりました。
お母さんは子供によい漫画の本を与へるやう選択すべきですが、それだからといって全部の漫画の本をみるのも大変でせう。そこで当局でお母さん代りに検閲を厳重に行って居るわけです。漫画は新しい芸術なので、長い目で見てよきものを育てゝゆきたいと思ひます。赤本、十銭本が浄化されて来たので高級な本、高い雑誌の売行に影響すると心配する向(むき)もありますが、子供に安い、良い本を与へることは幸福です。漫画家が自ら児童に対して社会教育の指導階級をもって任ずるやうに向上して、その人が総親和的なる大同団結を示したことは賛成です。次に子供の読物から振仮名(ふりがな)をとったことに就いていろんな批評はきゝますが、その後の成績は極めて良好で、雑誌の売行にいさゝかも影響しないと報国に接し、又、教育家からも賛成を得て居ますので、この方針ですゝみさらに、読物の内容、漫画、挿絵に対しても一層良心的に向上する様に導きたいと思ひますがそれには結局家庭のお母さんたちの協力が必要で、いたづらに宣伝や広告にまどはず愛する子供によき本や雑誌を与へるやう選択して頂きたいのです。(引用おしまい)
ずいぶんとふざけた話ですけど、これが帝政日本国の常識。納得できない、従わない臣民は非国民とされました。今回の文科省(文化庁は外局)の補助金不交付は、こんなディストピアを再現するための助走でしょう。若いみんなも、作家が自由に描いたテーマの漫画を、自分の自由な選択で読みたいよね。補助金不交付は絶対に撤回させねばなりません。
行き着く先は小林多喜二
表現の自由が侵害される時は、作品や公開の機会だけが侵されるのではありません。作者本人の生命にも危険が及びます。最近の選挙では、往来の自民党候補・議員にヤジを飛ばすと、あちこちで警官に排除されるそうです。実力組織が国民の表現の自由を阻害できる時代なんです。次のステップは、きっと検束・逮捕。どの美術家、ミュージシャン、漫画家が逮捕・拘禁の栄誉に輝くのでしょうか。下手すりゃ拷問付きで戦後の小林多喜二の称号を冠する羽目に陥るかもね。歴史に名が残るぞ。貧しい労働者の目を通して資本主義のあり方を告発した「蟹工船」で知られるプロレタリア作家小林は1933年2月、特高警察に逮捕され拷問死します。全身に打撲傷、首には細引で締めた跡が残り、外見からも内臓破裂が推測できたという遺体が家族に返されましたが、国家の小林へのむごい仕打ちは死後も続きました。
通夜、告別式にも警察官が動員され、外部との接触を遮断。弔問客16〜17人を片っ端から検束して、故人との面会を許さず、悲しみにくれる家族に恥をかかせ、さらに深い絶望の淵に追い落としました。
同年2月24日付の読売新聞夕刊「弔問客は全部検束 小林氏淋しく荼毘に」から引用します。読みやすくするため引用者が句読点を追加した箇所があります。
不審の死を遂げたプロ作家小林多喜二の遺骸は22日夜杉並区馬橋3ノ375の自宅で実母せき(61)、実弟三吾君及び友人江口渙氏の3人きりで同志から贈られたさゝさやかな花輪に飾られ淋しい通夜を行ひ23日を迎へたが、訃を聞き北海道から駆け付た(ママ)同人の姉夫婦佐藤藤吉、きえ氏(引用者注・多喜二の姉・ちまのことだと思われる)らは変りはてた弟の姿にしばし面もあげ得なかった。例によって杉並署からは20数名の制私服警官が出張、真向ひの空家に屯して前記の5名以外は絶対に近づけず弔問者は片ッ端し(ママ)から検束する厳戒ぶりであった。午後1時、近親達は心ばかりの告別式を行ひ堀之内火葬場で警官がギッチリ囲むうちに淋しく荼毘にふした。(引用おしまい)小林多喜二の葬儀妨害は、表現統制世界の終着駅の一つでした。あいちトリエンナーレが今、21世紀の小林多喜二として葬られようとしています。
漫画世界では、萌え、BLといった権力の意に沿わない、理解できないものはクールジャパンとかいう、役人主導で決まったよくわからない名誉枠から選別除外されていくのでしょう。不二の傑作「風と木の詩」も、杉田水脈的、自民党的にお気に召さないのは言うまでもありません。名作だから国が発禁にする前に若いみんなも買って読もう。いや、そもそも発禁にさせちゃいけないんですよ。トリエンナーレ問題の本筋は、物事の優劣を権力の都合で決めて、「劣」にされた方はどんどん弾圧しても構わないとする論法はけしからんという話です。
“杉田文相所管”の芸術祭を想像してみましょう。作家たちがどんなに悲惨な目に遭うものか。展覧会を見に行った客も検束されるかもね。
表現者、国民ともに、今が表現の自由を守るための正念場を迎えています。