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2016/11/27

「真田丸」第47回感想 「半端劇だった反撃」

「この世界の片隅に」の丁寧さ

アニメーション映画「この世界の片隅に」を見てきました。
戦前戦中の広島が舞台なんだけど、戦争反対だとか核兵器廃絶なんて問題提起じゃなくて、無名の市井人が時代の波に流されていく、だれにでも起こりうる悲劇、あのころ多少でもだれしもが体験した惨状をつづっていく作品。だれにでも何が起きるかわからない、だれしもが同じ人間なんだと気がつけば、原発事故被災地からの転校生をいじめる奴だっていなくなりますよ。中高生にぜひ見てほしい。いいおっさんがアニメ見て終盤は涙で顔がぐじゃぐじゃ。傑作と呼んでいいでしょう。
また、この普遍的なテーマを補完する考え抜かれた構図、風景や光を表現する彩色、時代風俗を丹念に再現した背景やセリフ。そして、主人公の声を担当した能年玲奈さんの熱演が素晴らしかったんです。
朝ドラ「あまちゃん」以降、あまり姿を見かけなくなりましたけど、いいよ、彼女。声を作っていても「能年だ」とわかる個性が消えていない。大事なことです。名女優にはなれないかもしれないが、いっそ大スターに化けるかもしれない。一般の演技者は役に近づくため工夫をするけれど、スターとは役の方が俳優に寄り添うもの。NHKも民放も使え、使え。この子、もっと伸びるよ。第一もったいないじゃないか。幼稚園児にまで「アキちゃん」と呼ばれ、愛された朝ドラヒロインが近年他にいたか?
で、この作品を鑑賞した後に「真田丸」見るのか……。つまらんのですよ。何がつまらんのかと言うと、作り手自身がつまらないと感じているのが視聴者に看破される程度の作劇が平然と行われているから。
第44回冒頭のナレーションに「信繁は籠城を取らず、城から討って出る大掛かりなを立てる」というのがあったんですけど、「策を取らず策を立てる」なる悪文が茶の間に垂れ流されるのは、書きなぐった後にロクに推敲もしない脚本家、疑義すら感じずそのまま通すスタッフが、仕事に対する責任感と面白みを感じていないと取られても仕方ありますまい。ドラマ制作で飯食ってる意識がまるでないよね。視聴者は怒るべきです。
この回はメインタイトルを最後に持っていったわけですが、演出に芸がない。土壁が壊れるどっかーん、馬がいななくヒヒーンといったSEを加えただけで、いったい何を示したかったのか。「あまちゃん」最終回でもタイトルが最後に流れましたけど、あれは当初独りぼっちだった主人公の隣を、最後の最後に親友のユイちゃんが一緒に走ることで、共に未来に向けて駆けていくテーマ性を示唆した好シーンでしたね。こけおどしの変速性など不要です。
真田丸での勝ちどきを挙げるシーンでは、白兵戦の末だというのに全員サラピンのきれいなベベを着たまんま。子供の時分に読んだ桃太郎の絵本を思い出しました。鬼ヶ島から凱旋してきたとこね。もしくはBSプレミアムのこども番組「ワラッチャオ!」に出てきた東京・江戸川区の商店街を守るヒーロー「商売繁盛エドレンジャー」のコスプレ。
何なんだ、このリアリティ放棄。こないだまで「真田丸」の後に放送していた海外ドラマ「戦争と平和」の泥とホコリにまみれた兵士たちの姿を見直した方がいいよ。戦闘とはそうしたものです。
まるでやる気のないドラマを見るのは苦痛でありますが、それがこちらの思い過ごしだといいな、と第47回「反撃」を見るといたしましょう。

キャラを作れない作家

徳川家康がここまで劣化するとは。ドラマ前半で人物像を掘り下げようと試みていたのがウソのようなステレオタイプに堕落しました。真田丸での負けいくさで「おのれ、またしても仮面ライダーめ」とカメラにうなる天本英世か潮健児演じるショッカー大幹部のごときアホなセリフを口にしてました。秀吉存命時に両者の関係性を築いておかなかったから、淀殿の在所を攻撃する心理・歴史の継続性皆無のままナレーションで戦場が描かれるのみです。
その淀殿のキャラクターは崩壊しています。大坂の陣をどうしたいのか、豊臣家の行末をいかに思うのか、まったく描かれぬまま籠城だ、和睦だ、と騒ぎ立てるおばはん。状況把握ができず、個人の思考が存在せぬ馬鹿として描写されている豊臣秀頼は、何かといえば「左衛門佐、頼むぞ」しか言わない。これを繰り返しやらされる中川大志さんは疑問を感じないんでしょうか。
全編がその回限りの連続読み切り漫画なんですよ。「真田丸」が、演題週替りの軽演劇だということは早い時期から感じていましたけど、ここにきての投げっぷりには正直あきれます。九州対面で主人公との関係を構築したはずの伊達政宗は、「愚かな男」と真田幸村に侮蔑を投げる端役となり、いくさにお家の盛衰がかかっている上杉景勝は敵方勝利に「真田、あっぱれ!」なんて大騒ぎ。軍監は利敵行為かサボタージュだと家康に報告するわな。人物造形がその日暮らしなのです。
淀殿と幸村の仲が噂になるのも何回目? 真田信之が独白で心理を語る毎回のお約束も相変わらず。本音を独白で済ます作劇は、もっとも安易な手法のひとつです。このブログで何度も主張していますが、真田信之は、ただでさえ滞っている作品のテンポを乱す要素。不要です。まったく要らない人物に成り果てました。その役立たず男に寄り添う小野お通を、ユイちゃんのママだった人が演じています。この人、職業不明でただただ気持ち悪いんですが、高級売春婦の設定なんでしょうか? 信之と周辺の人物は、ユイちゃんのママみたいに途中で蒸発してくれると、いっそ話がすっきりしますよ。

ドタバタは「ワラッチャオ!」を参考に

本欄でテレビドラマに苦言を呈する多くの場合は、視聴者をないがしろにする番組制作の手抜きにあります。前半数話で脚本の質が急降下、そのまま駄作化した「真田丸」にも、高い評価を与えることができません。その根拠の一つが先に述べた過去の設定や人物の軽視、その場しのぎの展開です。
今回、諸事中途半端で存在感が薄かった「きり」をあわてて和議の現場に投入しました。豊臣方に都合の悪い議事進行になると、足をつらせて悶絶するんですが見事に面白くない。「きり」が戦況を把握するきっかけは提出されず、交戦軍にいる父親を思いやる描写もまるっきり無視されている以上、休戦交渉現場に軍事の素人を投げ込んだところで、場面が説得力を得る術がありません。どの局面でイタタッと苦しめばいいのか、「きり」には理解できないでしょ。テレビ番組の足つり屈指の名場面といえば、「ワラッチャオ!」の初代お姉さん・桑子真帆アナが本番中に悶絶したシーンが思い起こされますが、こうした演技は本物のアクシデントでなければ、笑いを取れないものです。「真田丸」は笑いをナメるな。この数回、口を開けば「策がある」「策がない」と、単語「策」がやたら登場するのにもうんざり。作者のボキャブラリーの問題ではなく、書いた台本の読み直しをしていないからこんなケアレスミスが頻出するのだと思います。視聴者をナメるな。

老監督の配慮

インターネットの普及と技術の発達により、情報の発信というテレビジョンが独占してきた権利は、大きく様変わりしようとしています。ネット利用者のすべてがメディアとなりうる。また近い将来の安価な映像編集ソフトウェアの発達などによって、アイデアさえあれば大手メディアに所属していない人間であっても、立派な映像ドラマを電脳空間に提供する日は近いでしょう。先のアメリカ大統領選で、ジョニー・デップが反ドナルド・トランプの配信動画に出演したように、大手の俳優独占環境も崩れ得ます。商業映像劇には、今後ますますテーマの重視や作品の丁寧な作りが重要視されていくことは間違いありません。
「この世界の片隅に」が傑作たり得たのは、テーマを提出するために、おそらく膨大な時代・方言・風俗の考証を妥協なく進めた上に完成した丁寧な作劇にあります。近年、露出の減っていた能年玲奈さんの復活も、それだけの作品に本人が奮起したためだと思います。役者を動かし、観客(視聴者)の心をつかむのは、映像劇作り手の情熱に他なりません。
1960年、フジテレビは作家菊池寛の13回忌に合わせ、特別ドラマ「父帰る」を制作。中村雁治郎、菅原謙二、川口浩、野添ひとみら映画各社からスター俳優が出演しました。多忙な俳優たちのスケジュールをやりくりしながら、薄氷を踏むように撮影は進みました。これをまとめたのが、映画監督の衣笠貞之助による脚本でした。
同年2月23日付の朝日新聞「豪華キャストの『父帰る』」より引用します。
(前略)みんな忙しい人ばかり。中村雁治郎は名古屋の御園座で息子の扇雀といっしょに公演中で、24日に帰京する。26日が「父帰る」のビデオテープどりの日に当たり、彼のけいこ日は24日と25日のたった2日だけ。それも次の映画の仕事を延ばしてもらってというあわただしさである。菅原謙二は九州でロケがあったが20日に帰京できたのでまずまず。川口浩は井上梅次監督の「勝利と敗北」の撮影があるが、夜の時間を利用してつきあう。野添ひとみは香港から帰国したばかりで危うくセーフ。衣笠監督は泉鏡花原作の「歌行灯」の撮影に備えて脚色を担当中で「時間がなくて困ってるところをむりして」スケジュールをあけたそうだ。
それでも衣笠氏の脚本は、フジテレビの人たちが「こんなに手のこんだ脚本は見たことがない」というほどのできばえ。何しろ各登場人物の性格はおろか、カメラ割り、セット割りに至るまでこまかく指定するほどの細心な手の入れようで、台本を見れば現場の人たちがそれだけを頼りに仕事が進められるほどだ。衣笠氏は「俳優諸君がみんな忙しいため十分に打ち合わせするひまがないので、こまかく指定しておかないと、いざという場になってまごつくと思ってやったことです。これでみなさんに“あっ”といってもらおうと考えています」といっている。(引用おしまい)
長谷川一夫とのコンビで数多くの映画を撮った衣笠貞之助の制作進行への配慮は、現今の撮影現場にはありえないものでしょう。脚本家が演出にまで口を出すな、との声も出るかもしれません。とはいえ、ギリギリのスケジュールの中で作品を完成させんと努めた老監督の映像劇への情熱を、テレビ劇制作者たちは見直す時ではないでしょうか。
傑作と駄作の両方を鑑賞した日、つくづく考えさせられました。