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2016/12/03

「鬼平犯科帳」に流れる長谷川伸の精神

「鬼平」が面白かった理由


テレビ時代劇最強にして最後の砦だった中村吉右衛門版「鬼平犯科帳」が、幕を閉じました。風俗や食べ物をもってかもし出す季節感の墨守、毎回の丁寧な配役、他に比すれば破たんが少ない脚本等々、昨今のテレビ映像劇の中では群を抜くクオリティを維持してきました。
2日の放送では、若村麻由美さん大熱演の見せ場が映えるように、光るように意図されたカメラワークが、いかにも「鬼平」らしく秀逸でした。俳優の演技をちゃんと茶の間に届けるべく企画された画です。最後らしく、同心それぞれのチャンバラを続けて茶の間に見せるフレームワークも万全の視聴者サービス。だいぶ前ですが、高橋長英さんが時代劇の悪役なのに大げさにしない自然な芝居をする様をくまなく見せた画づくりのおかげで、実はこの人名優なんだと気付かされたことがあります。原作者池波正太郎生前からの付き合いだったプロデューサーや演出家・監修担当の目配りが利いていたのでしょう。
3日の最終話では、歴代出演ゲス野郎ワーストランキング上位入賞間違い無しの木下ほうかさんの出演がうれしかった。かつて鬼平と見事なキセルさばき合戦を見せた中村嘉葎雄さんも登場。鬼平では加藤武のキセル扱いも達者でした。喫煙シーンがテレビドラマから次第に消えていく今後、もう紫煙が時代劇に登場するのはまれとなるでしょう。
放送が始まった頃は、原作を溺読した人間からすると、俳優陣が全体に歳を取りすぎている違和感を感じたものでした。それがすぐに「この人らでなきゃダメだ」と評価が変わっちゃったのも、作り手自身が作品世界を構築できていたからでしょう。抑え気味でほとんど前に出てこない綿引勝彦さんですが、顔を見ない回はなんとなく寂しく感じました。梶芽衣子さんは「女囚さそり」を見て以来、映るだけでドキドキする永遠の姐さんです。萬屋錦之介版では密偵だった藤巻潤さんはすぐに板前役が板につきました。故人となった蟹江敬三、江戸家猫八、仲谷昇、中西龍らの顔や声を見聞きできないのが残念です。
中村吉右衛門さんは、肉体の衰えと闘いながら素晴らしい殺陣を続けてきました。育ちの良さが勝って、長谷川平蔵の悪道に走った過去の影を再現できるかと思ったこともありましたが、時間をかけて自分の鬼平像を構築、父・松本幸四郎を超えて視聴者に愛されたベスト・オブ・鬼平となりました。池波正太郎は「作家の四季」(講談社刊)で、若き吉右衛門さんが自作の舞台に立った時のことを以下のように語っています。
吉右衛門さんは、いまよりも痩せていて、無口だったが、神経がピリピリしているような感じを受けた。
演出も私がやったけれども、吉右衛門さんは何だか、気が乗らないように見えた。
ところが、舞台にかかると、毎日、演じ方がちがっている。
そして、1日ごとに、深味が増してきて、びっくりしたものである。(引用おしまい)
1970年のことですから、吉右衛門さんは昔から演じながら役を作っていくタイプだったようです。「鬼平」はまさにそうでした。お疲れ様でした。

長谷川伸とハーフ児童


「鬼平犯科帳」が小説・映像化作品とも長期にわたる幅広い人気を得た理由の一つは、善悪だけの定規で測れない人間の複雑な生き方、貧者・弱者にも光を当てたヒューマニズムにありました。池波正太郎の師匠・長谷川伸は、今では「瞼の母」、それもタイトルぐらいしか一般に知られていませんが、人情を絡めた大衆小説を執筆し続け、原作が芝居に映画に起用された超人気作家でした。個人としても人格者で、弟子たちにも「一緒に勉強しましょう」と、おごることはなかったそうです。
戦後、米兵と日本人女性との間に生まれたハーフの子どもたちの待遇が社会問題化した時期がありました。母国に帰ったまま妻子をかえりみることなき者、朝鮮戦争で戦死する者が続出、母子または孤児となるこどもたちは差別の対象でもありました。
その状況に心を傷めた長谷川が朝日新聞に寄稿した1952年12月10日付の一文「混血の児」より引用します。
(前略)旅先で見た土地の新聞記事に、黒人兵の子にして父は遠く去りて、若き母のみの女の児が、うち黒いのなンでやなと、母に問うたというのがあった。あわれなるかや若き母が、心直ぐ(すぐ)なれば直ぐなるほど、何と答うべきかを知らないことであろう。
(中略)明治37、38年の世にいう日露戦役(注・日露戦争)のとき、若き日の私は兵であったが、イギリス人を父とし日本人を母とした子が、補充兵招集を受けてはいって来た。「紅毛碧眼」のこの兵は、兵営の外に出れば憲兵の検問にひっかかり、一般人からは怪疑を買い、兵営の内にあれば軽侮と嘲罵(ちょうば)の的にされた。だがおなじ中隊の殊(こと)に班をおなじくする下士官兵卒は、厚薄こそあれ同情か善意か擁護のどれかしらであった。とはいえ意識では日本人のだれとも違わないこの混血兵は、外観のために招かれざるに来たる侮辱に耐えきれず、遂に自殺を企つるに至った。幸いに一度は他の兵が、次の場合には私が食いとめた。しかしやがてして私は、その兵の脱走に同意し、外国に逃げ失せることに若干の手伝いをした。今は40年余りを経たが、その後その兵がどうなったかを知らない。
この一事の経験では、混血兵をゆえなく侮辱するものは、農村出身者と東京者に多く、横浜育ちか神戸生活をしたものには少なかった、前者が混血の子について無知なのに比べて、後者は有知であった、いい換えると見聞の有無による差なのであった。
(中略)私たちは先々代市村羽左衛門を、チャキチャキの江戸ッ子にして名優としてこそ知り、かつ愛し、フランス人の血をうけたなぞということは、いささかの関係もなかったという実例がある。また、ポルトガル人の血をうけた人もいる、しかし私たちが知っていることは、その人たちが生粋(きっすい)の日本人であることだけである。
(中略)私は前に羽左衛門のことをいった。独り羽左衛門にとどまらない、現代著名人のうち異邦人を片親にもつ人の子は1人2人ではないといって、誤謬ではあるまい。
われらの国史から混血の子を除き去ることが出来ない事実、そうしたものが古今を通じてある事を、お互いに知合う(ママ)こそ、不憫なる、あの児童に、有利を当然なるものとして贈る一因になる、と私は信ずる。(引用おしまい)
日露戦争中の規律厳しく大日本帝国万歳一色に染まった兵舎から、差別を受ける戦友を逃亡させたエピソード、ハーフの有名人が国内に大勢いる旨を示して無知が生み出す差別を解消しようと訴える長谷川の精神は、被災地からの転校生へのいじめが教師ぐるみで行われている現在にも通じる普遍的なものです。
長谷川の優しい視点を受け継いだ池波の「鬼平」終了で、日本の伝統あるテレビ時代劇は一時代を終えました。人の心と心をつなぐ丁寧で温かい新作時代劇を再び目にする日が次にやってくるのはいつになるでしょう。後塵に期待しています。