ハロウィン化する大河ドラマ
10月31日はハロウィン。街にはコスプレイヤーがあふれ、皆わいわいと楽しんでいます。百貨店などの業界が秋の消費イベントとして定着させようと10年ほど前から仕掛け続けてきましたが、その甲斐あって、この数年ですっかり定着した模様。広告代理店の戦略丸乗りだって構いません。ハロウィンのキリスト教的背景なんか知らなくってもいいんです。悪いことじゃありません。わーっとお祭り騒ぎしてストレス発散、リフレッシュして再び仕事や学業に励めばよろしい。
近年まさに大河ドラマもすっかりハロウィン化してきました。細かい筋や人物設定なんかは気にすることなく、日曜午後8時のイベントとして機能させればいいと思っている人たちがいるに違いありません。サブキャラに役立たずとののしられた文字通り役立たずの真田幸村が、翌週には大坂城で何の葛藤もなく詐欺師クヒオ大佐のごとく歴戦の智将を演じ、真田信之は腕がしびれるだけで体は大丈夫だ、と言った端から「この体ではいくさは無理」と参陣拒否。「花燃ゆ」並みのキャラ変が当たり前になってきて、駄作化が進行している「真田丸」についての感想を、ここ2週ほど述べる気力がありませんでした。
NHK放送文化研究所の専門誌「放送研究と調査」8月号に掲載された視聴者調査では、スマホ使用が日常である20代は、同時にいくつもの情報に「ザッピング(切り替え)」しながら触れるのを好み、一つの情報(番組)に集中するのを好まない傾向があることがわかったそうです。大河ドラマ1年間でも、一貫させたストーリーや人物設定に汗をかく必要のない時代なのでしょうか。
ネット的つまみ食い視聴者を意識しているのか否か。第43回「軍議」を見ましょう。
大坂城は「荒野の七人」になるのか
真田信之、もう要らないよね。我が家大事で弟の心理や状況への気遣いなんかゼロだもの。それらが欠けている人物である以上、存在自体が大いくさに向かって進撃する物語全体にとってのノイズでしかありません。移動の兵隊が休んでる前で真剣をびゅんびゅん振ってイカレ具合をアピールする信之の次男の浮きっぷりは、笑わなきゃならないとこなんでしょうか。「LIFE!〜人生に捧げるコント〜」の場面を流しちゃった編集ミスかと思いました。こんなドラ息子じゃ殿様も心配だろうけど、もう信之様は画面に出てこなくても良いよ。
台本の近現代語も、もはや隠そうともしません。今回は「ハッタリ」に顕著。その前には「とことん」がありました。徳川家康は、同盟関係を結ぶべき大名相手に「家臣になれ(徳川家に入れの意)」と、しょっちゅう言っています。東国に縁のないはずの後藤又兵衛が、「かかわりねえ!」「〜じゃねえ!」なる江戸歌舞伎に出演する六方詞(ろっぽうことば)の関東奴まがいの口調でわめくのも従来の時代劇では完全にアウトですが、ザッピング視聴者対象だと思えば無視しても良いとの判断が働いているんでしょう。
女性陣の扱いは相変わらず雑ですね。幸村を信頼しきっている設定の淀殿が、幸村がはねつけた籠城案を理由の提出なくゴリ押し。視聴者への説明なしに牢人衆と敵対する大蔵卿局もこんなキャラだっけ? 峯村リエさんも役づくりが大変だわ、と心配していましたが杞憂でした。廊下でのラストシーン、幸村への愛想笑いから一瞬、鬼神の厳しい表情に変化するお芝居にヤラレました。女優魂、沸騰です。100℃です。舞台だといい声してるのがわかります。未見の方は、一度劇場へぜひどうぞ。
今回の中心場面はタイトル通り「軍議」。前回と合わせてまるまる2回を牢人衆のキャラ紹介に費やしました。三谷幸喜さんは、どうやら大坂の陣を1960年のアメリカ映画「荒野の七人」にしたいのではないか。新聞のコラムで本作執筆に絡めて、この西部劇のDVDを見た話を思わせぶりに書いていました。何のこっちゃ、といぶかしんでいましたが、個性派チームで東軍をきりきり舞いさせる前段に2回を使ったとすれば腑に落ちます。「真田丸」ファンで「荒野の七人」を未見の方、一度DVDでぜひどうぞ。
リーダー・真田幸村(ユル・ブリンナー)、その右腕・毛利勝永(スティーブ・マックイーン)、反抗的一匹狼・後藤又兵衛(ブラッド・デクスター)、自信なげなビビリ症・明石全登(ロバート・ボーン)、朴とつ・長曽我部盛親(チャールズ・ブロンソン)。若い真田大助(ホルスト・ブッフホルツ)と飛び道具の名手・佐助(ジェームズ・コバーン)が加わり7人。徳川家康は、すでに山賊の親玉(イーライ・ウォーラック)みたいなキャラクターになってます。幸村絶体絶命のピンチを突如現れた又兵衛が救って、自分はそこで落命。これ、やるような気がします。いや、やるな。果たして「真田丸」は、ザッピング視聴者のマナコを引きつけるアクション劇になれるか。
これくらいの妄想を働かせないと、またも映像のムダ遣いに付き合わされたと、後悔しますからね。軍議は踊る、されど進まず。世間にはザッピングが苦手な視聴者もいるってことです。
演出家に求める才能の開花
大坂の戦いがいかなる展開になるのか、迫力ある画を作ることができるか。不安は演出にあります。ここにきて本作の駄作化が進んでいる大きな要因は、毎回の平板・退屈な画にあります。役者がしゃべればバストアップ、人物が並ぶシーンは動かぬカメラが舞台劇中継のように全員を映し出す。カメラが移動する時は判で押したように廊下のシーン。庭に据えたレールの上をカメラが滑ります。
老人の扮装を解いた幸村がさっそうと城内を歩いた場面なんか、「まさか下侍に杖を渡すところを下から撮って、歩く表情をバストアップのまま同距離で撮影なんていうベタベタ画面じゃないよね」と、直前に懸念したカットが的中。以前、小田原城でのチャンバラの画を学生映画サークル並みだと評しましたけど、レンズ操作のみで空間を切り取るズームを効果的に使わないなど、映像劇の持ち味である前後の奥行きを見せる工夫をほとんどしないのが不思議でなりません。今回は毛利勝永相手にズームを決めました。前回・前々回より監督が頭を使っています。それでも、1話1回が限度のキメショット。どうせなら主役に向けてやってほしかったですねえ。
映画と違い現在のテレビは、演出家のネームバリューがものを言うことがほとんどありません。映画は監督が注目され、脚本家の地位が低い。テレビは逆です。手を抜こうと思えば、いくらでも可能。考えないって楽ですしね。しかし、この毒まんじゅうには一度食せば習い性になる恐ろしさがあります。例に挙げて申し訳ありませんが、昨年の「花燃ゆ」で退屈な演出をしていた人が、現在放送中の連続テレビ小説「べっぴんさん」にクレジットされています。相変わらずペターっとした画面ばかりで朝から視聴者の目が覚めません。古い建物といえば大阪市立博物館ばっかりをロケに使う、大阪制作全体に漂う思考停止も問題ですが。
サラリーマン演出家になってしまっていいのか。映像作家になったからには実現できるはずのオリジナリティを発揮しようと思わぬものか。今日は、独特の感性と自作の脚本にこだわり、かつてのNHKドラマをけん引したディレクター・佐々木昭一郎氏のお話をします。
1960年に入局した佐々木さんは、個人が自立思考に事欠かなかった安保闘争世代。さらにはラジオ畑が長かったせいか、音楽と映像の融合センスが抜群でした。視聴者ウケを狙った平板な画は作らない。演出家の主張や表現は必ず入れる。時に難解だったのは事実で、「公共放送のフェデリコ・フェリーニかよ」と、個人的には頭を抱えた番組もありました。とはいえ、そのセンスは海外でも評価されて、国際的な賞をいくつも受賞しています。
佐々木さんが1980年にイタリア放送協会賞を受賞した際のインタビュー、朝日新聞「ひと」(佐藤光房編集委員)から引用します。
(前略)1月12日に放送されたテレビの90分ドラマ「四季・ユートピアノ」を語るのはむずかしい。筋があるような、ないような。ピアノを調律する若い女性の、雪国のふるさとでピアノを焼いた幼い日の回想と現在。それが、たとえば海岸で拾った音叉(おんさ)、ラッパ型蓄音機、工具を入れたバイオリンケース、田舎道を歩くゾウ……となめらかにはつながらない映像をとりとめない独り言でつないで展開する。マーラーの第4を使った音楽が美しい。この記事で注目すべきは、自作が再放送されることに対する演出家の喜びです。一般家庭に録画機器が普及したのは1980年代半ば以降。たとえ良い番組であっても視聴者が自分の意思で鑑賞し直すことのかなわぬ時代、ビデオソフトとなって販売・レンタルされるなど考えられないころ、視聴者に認めてもらうために、ひいてはそれが再放送につながる希望を抱いて必死に映像表現に取り組んだ男が、おそらくは何人もの演出家たちがいたという歴史を持つ放送局で、平板な大河ドラマを毎回流している事実に、当の演出家連が思い至る時ではないでしょうか。視聴者からの投書にも自分で返信するんだよ、来るんであればね。
1月の視聴率は1けたに届かなかった。が、反響は大きく、「ぜひ再放送を」という投書に返事を書き終えるのに3カ月かかった。「視聴率でテレビのボタンを押した数を計ることはできても、その番組から受けたものの深さは計れない。受賞でなによりうれしいのは、これで再放送が実現することです」
英語字幕版ができた日の日記に、こう書いたという。――日本の文学、日本の音、なんでも“日本の”がつく間はだめだ。“日本の”を離れた、世界に通用する普遍的なドラマを。
スポンサーのごきげんを心配しないですむNHKでなければおそらく開花しなかっただろう、幸運な才能。(引用おしまい)
映像劇を監督する厳しさや楽しさを今こそ感じて作ろうよ。「スポンサーの機嫌を心配しないですむNHK」にあって、スポンサーならぬ永田町の意向ばかりを気にしている報道のていたらくを考えれば、テレビドラマの世界にはまだ「幸運な才能」が開花する余地があるんですから。