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2016/09/20

杉山千佐子が伝えたかったこと

杉山千佐子さんが亡くなりました。
米軍の名古屋空襲で左目を失い、以後戦争で被災した民間人への国の救済を訴え続けてきた女性です。
戦時中の軍人・軍属は、恩給や弔慰金、遺族年金など手厚い保護が受けられます(厚労省ウェブサイト参照)。一方で、一般人に対しては全くの無策。認めてしまえば国庫が破たんする施策を行政がほいほい呑むはずがありません。杉山さんが、その最期まで補償にこだわったのは、膨大な額の国家賠償にリアリティを持たせることで、日本を二度と戦争に加担する国にさせないとの思いからでした。
とはいえ、戦後71年。本土空襲、沖縄では地上戦までが行われて、大勢の人間が殺され、傷つけられた歴史の現実感は薄れてきているでしょう。戦いが終わった後も一般市民がどんな目に遭うのか、想像できない人の方が圧倒的多数であるのは当然です。
今日は、ある被爆者が、戦後30年たって行政から受けた仕打ちを紹介します。いざ戦争となれば民間人の命の価値が、国からいかに軽んじられるかを若いみんなが考える一助になれば幸いです。1975年6月6日付の毎日新聞「原爆は天災 だから公傷にならぬ」から引用します。年号は昭和です。
【広島】「公務中に被爆しても、偶発的な事故なので、傷の治療は私傷扱いとする」ーーという冷たい行政判断で、広島県佐伯郡廿日市町◯◯、郵政省中国電波監理局電波監視官、Aさん(注・記事中に詳しい住所と実名が記載されているが引用者の判断で改変)は年末に給与の支払いをストップされる。被爆30年たったいまも、被爆者の完全援護が実現されていない行政の貧困がもたらした悲劇で、老いて行く(ママ)被爆者に新たな不安を与えている。
Aさんは広島逓信局の無線係だった30年前の8月6日、爆心地から1.1キロ離れ広島市東白島町の同局3階で執務中に被爆、窓ガラスの破片を背中や腕に浴びた。当時のガラスの小片など異物が体内に深く入り込み、神経に突き刺さっており、33年には下半身不全マヒ症と診断され、原爆に起因する原爆症患者と認定された。
痛みに悩まされながら仕事を続けたが、昨年春、ついにダウン。8月に同市内の外科病院で手術、背中左半分に残っていたガラス片などを取り出した。しかし、まだ右半分の手術が残っており、現在も休職のまま。
問題は休業補償。Aさんは、診断書を添え、被爆の事情を説明して“公傷扱い”を申し入れたが、郵政省から届いた返事は「公務員公務災害補償法に基づく人事院の指導基準では、原爆は天災地変並みの偶発事故とみなされ、官吏俸給令にある“私事の公傷”」という冷淡なものだった。
このため、休職3カ月後から賃金の20%がカットされ、17万円前後あった給料は13万余円に減った。さらに郵政省の規定で休職1年になる今年12月からは給料は支払われなくなる。
(中略)この点について郵政省総務課厚生係は「人事院の規定では、公務で被爆後、広島で救援活動をした者は公傷扱いとなっているが、Aさんはたまたま事故にあっただけと判断した」と答えている。(引用おしまい)
広島原爆が投下された1945年中の死者は14万人と言われています。生きながらえた被爆者の数を加えれば何十万人になるのでしょう。彼らはことごとく、たまたまの天災被災者だというのが、我が国の行政の主張だということですね。恐ろしい考えです。「身内」の公務員にも容赦がありません。これは杉山さんが訴え続けた、政府にとっての自国民の生命の軽さが表出したケースのうちのたった一つにすぎません。
つい最近も、米軍と自衛隊の共同訓練が行われたと発表されました。絶対の方針だった専守防衛が崩れ、再びの戦火、民間人被災の危険度が増しています。その際に国が何もしてくれないのは歴史からも明らか。ささやかな史実であっても、それを伝えることで、若い人たちによる戦争の抑止力が育まれれてほしいと願います。
杉山さん、幾度も押しつぶされかけながら闘い続けた、あなたの101年間の生涯に強い敬意を覚えます。お疲れ様でした。