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2016/09/19

「真田丸」第37回感想 「信に乏しき信之」


大河じゃなかった「真田丸」


「真田丸」の感想を書くのは久しぶりです。第26回「瓜売」を見て、冷めちゃったんですね。大陸攻めの最中、大名こぞって学芸会やらかした回です。
演芸の出番を前に秀吉が「ぶぐばぐ、ぶぐばく」と言ってました。元ネタは「武具馬具、武具馬具」。徳川吉宗が将軍だった頃の歌舞伎十八番「外郎売(ういろううり)」のセリフで、現在でもアナウンサーや俳優の発声練習で使われています。あの場面、豊臣秀吉はかけらも演じられておらず、100%天然の小日向文世さんが滑舌の練習をする様が全国の茶の間に流されたというわけです。
時代考証のうっかりミスではありえない。確信犯です。要するに作り手は、一般に言う大河ドラマを撮っているのではなく、「日曜午後8時の時間とNHKの予算を使って、やりたいように遊ぶぞ」を主題にドラマを作っている。
それまでまったく見えなかった本作のテーマを理解した途端に、「真田丸」を大河だと思って鑑賞してきた自分が恥ずかしくなっちゃいました。脚本家が新聞のコラムで「当時なかった言葉は使わない」と書いたハッタリに引っかかって妙ちくりんな現代語を指摘したり、刃の付いていない刀を時代劇に出すな、なんて注文出してたのが情けなくなってねえ……。コントだと思えば、劇中の赤ん坊がパンパースはいていようが、たとえイカ大王が出現しようが、目くじら立てる必要もありませんよ。刀だって、リアリティのない方がコントにはマッチします。
とりあえずは、「これは大河ドラマではない」という視点で、第37回「信之」を見るとしましょう。

泣けない男泣き


関が原の戦いが終わって、真田一族が和歌山の九度山に放逐されるところまでが描かれました。丸々1話が戦後処理のあらすじ。真田はこうなった挙句こうなりました、大谷吉継はこんな風に死んで、石田三成は首を打たれましたエトセトラ。人間ドラマほぼ皆無のまま、視聴者はストーリーを追わされます。人物造形より物語進行重視の三谷脚本らしいと言われればそうだけど、大河ドラマじゃないとしても、何なんだろ、これ? 笑うとこ無かったからコントじゃないよね。歴史秘話ヒストリア日曜版か。
増やしすぎた登場人物の環境の変化を逐一取り上げて尺取り虫にしたのが、全体像が浅くなった一因ですね。物語のノイズっ子「きり」の存在は相変わらず。真田信繁の娘、大谷刑部の娘についても、次回以降に回せば良かったと思います。今回登場させる必然性を感じません。必竟、つまらんシーンになるから俳優の株価も上がりません。真田信繁の嫁役の女優さん、可愛らしいけどお芝居が雑だよ。民放演芸番組の司会でもカンペ棒読みだったし、忙しすぎるのかな。視聴者にとっては、昨年の「花燃ゆ」高杉晋作夫人と同じデジャブ的邪魔具合。タレント事務所は仕事を選んであげないと、有望株をつぶしちゃいますよ。
今回、ストーリーの軸に据える値打ちのある人物がいたとしたら、サブタイトル通り真田信幸だったでしょう。戦勝サイドに付きながら敗軍の肉親救命に奔走する骨格に周囲の人物の動向を肉付けしていけば、大河ではない単発劇だと思えど深い人間ドラマになる可能性はありました。
でも、無かったですね、見せ場。あらすじだから。
家康説得は舅の独壇場。実質的に手柄のない姿を視聴者は見ているから、真田家で仰々しく結果報告されても感情移入ができません。本来、明るい役柄で本領を発揮する大泉洋さんの無駄遣いです。
家康に助命のお情けをもらって男泣きする場面は象徴的でした。大の男がカメラの前で涙を流すのは、映像劇中かなりのインパクトがあるショットのはずです。父親の命が救われたところで、自分の名前から父の「幸」の字を外して改名せよ、などという大事の後の小事に顔をゆがめて涙する動機が理解不能。しょせんあらすじだとしても、ピントがズレているのではないですか。

木下恵介と松山善三


男性キャラを泣かせることで観客(視聴者)の涙腺をも緩めた名人といえば、映画監督の木下恵介が思い出されます。島崎藤村原作による「破戒」で池部良が演じた被差別地域出身者と、その理解者宇野重吉が手を取り合っての男泣きは、日本映画屈指の落涙シーンだと思います。「カルメン故郷に帰る」では、不出来な娘を思いやって泣く父親役の坂本武も良い芝居をしていました。木下作品の野郎泣きは、男の心情を知り尽くした監督の必殺技でした。
木下の教え子の一人に、先月亡くなった脚本家・監督の松山善三がいます。障がい者を扱った「名もなく貧しく美しく」「典子は、今」、被爆者にフォーカスした「ふたりのイーダ」、認知症を見つめた「恍惚の人」など、社会への目配りを常に忘れない人でした。
その配慮の精神は、木下師匠の下で培われたものだったようです。1980年4月24日付の毎日新聞への寄稿「めぐりあい」より引用します。
(前略)「いつもふりむけ……」という教訓ほど、僕のその後の生き方に大きな影響を与えてくれた言葉はない。木下監督の作品は、自然の風景の中で展開される人間葛藤のドラマが多い。ロケ・バスに揺られて町や山野をゆく時、木下監督は必ず「ふりむいて見よ」と、僕たち助監督に教えた。前方に見える風景と、ふりかえって見る風景の違いは、言われてみて、はじめて知った。仕事のあり方も、日常の生き方も「ふりかえって」こそ、よく見える。
(中略)「毎日、衣装を替えろ」とも言った。華美や奇をてらうのではなく、清潔を第一に、第二に、衣替(ころもが)えすることで自分の心をいつも清新にひきしめ、第三に、他人に好感を与えよと教えた。役者は、どんなに下手でも「褒めろ、叱るな」と言い、下手を叱れば「ますます下手になるだけだ」と笑った。下手な役者でも、配役した以上、その役者をうまくつかうのが監督の腕だと言い、役者の表情がどうしても気に入らない時は「動き」を加えて、後ろ向きにした。こわい、意地の悪い監督である。けれども、その手にかかって、沢山の新人俳優が生まれた。役者には優しかったが、スタッフにはきびしかった。「助監督という言葉を文字に書いてみろ。監督を助けると書く。お前らの恥や誇りを云々している暇などない。黙って俺のために働け」と、怒鳴った。一度、頬を打たれたことがある。「日本の悲劇」という作品の完成まぎわであった。何度注意されても、僕は編集フィルムの前後がのみこめなかった。いらだった監督が手をあげた。僕は口惜し涙をこぼした。しかし、その頃まだ、僕は若かった。感傷が、その傷口をふさいでくれた。他人は「感傷」を嘲うが、僕は「憎悪」のエネルギーより「感傷」の甘さをとる。(引用おしまい)
「ふりむいて見よ」。この言葉は、むろん物理的な作業とは別の精神的な試行を指していますよね。松山はたゆまずふりむくことで、周囲に配る目を養ったのでしょう。通勤電車の中でスマホをいじり、ゲームに没頭したりニュースを読んだり株価や為替の情報に一喜一憂したりして今だけを追い、過去について考えることの少なくなった私たちには、木下恵介の教えは無益な古文書になってしまったのでしょうか。戦国時代どころか、つい70年前の戦争すら、本質へふり返る視点が定まらないドラマや報道があふれているのが我が国のテレビジョンです。
下手くそ役者は後ろ向きにして表情を撮らない、というのも俳優にとって怖い話です。その怖さを、バラエティかけ持ちの若いテレビアクトレスさんは想像できるでしょうか。しかも、そんな仕打ちをしながら、結果的にスターに育てていく木下恵介。さらに怖いですね。監督の理不尽を恨まず、感傷にひたるに任せた松山善三も大したものです。
引き続き同記事から引用します。
映画制作にはラッシュ・フィルムを見るという作業がある。(中略)ラッシュ・フィルムを見るのは、スタッフにとって、ちょっと不安で、怖い気持ちだが、木下監督はいつも御機嫌だった。「いいねえ。うまいねえ……」と、試写室で大きな声を出す。僕は、役者の芝居がうまくて喜んでいるのかと思うと、これが、そうではない。「松山君、どう?……僕の演出はいいだろ、うまいだろ……」と来る。「はい、はい」と、僕も素直にうなずく。事実、お見事だから感心するより他に言葉はないが、この天真爛漫、子供のようなはしゃぎぶりを見て仰天しない人はいない。監督のこわさを知らない人は「いい方ですねえ……」と褒めるが、冗談じゃない。木下監督を満足させるために、どれだけ多くのスタッフがきりきり舞いし、どんなに泣いているか、それは残念ながらフィルムには写っていないのだ。
僕は7年間、木下監督の家に下宿して、その教えを受けた。完全なる徒弟である。徒弟には暇がない。見たい映画も見られない。すると、師は「松山君、あんな映画を見てもつまらないよ」と来る。「見なければ分からないでしょう?」と僕。
「見なくても分かるの……。つまらない映画を見ると、あのくらいなら俺にも出来ると思うだろ?……その時、君はもう堕落しているんだ」と、師。
恐ろしい7年間であった。しかし、それが、僕の「師」と「人生」との出会いであった。(引用おしまい)
木下に対する松山の愛憎がていねいに記された一文です。7年間のあらすじにすぎませんが、読み応えのあるあらすじだと思います。理不尽極まりない先輩宅に寄宿して、外出の自由すらない生活を送るのは不幸ですが、映画術と人生を学んだ幸せな7年間だったとも読めます。
そういえば、三谷幸喜さんには師匠がいたんでしたっけ。真田信幸の泣き様に、ふと疑問が浮かんだ次第です。