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2016/05/28

オバマ大統領と秋山ちえ子

サミットのため来日したオバマ米大統領は、二つの地域に関する話題で注目を浴びました。被爆地広島訪問と、沖縄の米軍関係者によるとされる女性の死体遺棄事件。日本国民の多くが、アメリカ政府・国民に核兵器と基地問題の双方を考えさせるきっかけになれば、と願ったと思います。
広島での大統領の振る舞いはさすがでした。日本軍の捕虜虐待やナチスの強制収容所の話を盛り込みつつ、核の脅威を文明論として開示することで、自国の退役軍人らへの配慮を見せ、被爆者とはハグをしてみせて我が国でも好感度を上げました。プロの政治家です。日米首脳会談後の記者会見で大統領が話している間、中空を見つめて次にしゃべる内容をブツブツ復唱していたせいで、電波系だと誤解されかねない姿が世界中に放送された日本の首相は見習った方がいいよ。
沖縄の一件では日米地位協定の改訂を訴えるべきでしたけど、大統領は米軍の最高司令官(Commander in Chief)です。はい、そうですね、と言うはずがないから、そこは回避したんでしょう。それなら、翁長雄志県知事と大統領との面会をアメリカ側に求めるぐらいやるのが、国益重視の外交ではないのかなあ。知事だって、かませ犬になる結果を承知でも喜んで出て行ったんじゃないでしょうか。記者会見本番中に演説の練習をする人(Buffer in Chief)に、そこまでの配慮を求めるのはぜいたくですか。
この二つのトピックには、アメリカへのアピールの必要性と同時に、私たち日本人も改めて思い直す意味があるのではないでしょうか。アメリカが悪かった、諸悪の根源は米国だ、とよそへ責任を押し付けて済まそうとする以前に、日本の中でも十分な理解ができていないように思えます。
広島の被爆者の苦しみと核兵器の残虐さを米国民に訴える見識が、戦後71年目を迎えた私たちに残っているのか。野球の一番打者のことを「脅威の核弾頭」などと形容するメディアがありますね。多くの抗議を受けることもなく汎用されています。広島カープや高校野球長崎県代表校のトップバッターを“核弾頭”呼ばわりすることができますか。国民がヒロシマ・ナガサキの思いに鈍感になっている証左ではないのか。
繰り返される沖縄での犯罪にも本土は冷淡。基地負担を分散させる議論を国会や自治体レベルでまじめに行ったと、ついぞ聞いたことがありません。沖縄には何度か行ったことがありますが、中東で戦争やってる最中に訪れた時の、島中がピリピリした特別な雰囲気は異常なものでした。いつ自分が戦地に行かされるやもしれぬ街中の米兵はイライラのし通し。どこで犯罪が起きても不思議じゃなかった。そんな環境下で長年生活してきた沖縄県民の心を、事件が起きるたびに単一の1事案として片付けてしまう本土の報道、その程度の情報を受け流してしまう国民の多くは、しんしゃくできていません。
先月亡くなった評論家の秋山ちえ子は、戦争の悲惨と不戦・非戦の大切さを訴え続けた人でした。戦時中に餓死させられた上野動物園の象の実話「かわいそうなぞう」を朗読し続けたことでも有名です。秋山は、復帰前から沖縄に足を運び、米民政府統治下にあった庶民の暮らしを見つめました。1965年8月15日付の読売新聞への寄稿「日曜サロン 4年ぶりの沖縄訪問」より引用します。
(前略)生活はたしかに4年前より水準は上がっている感じだった。が、精神的な不安感ははかり知れぬ深いものであった。
金網の向こう側の米軍基地にはベトナム向けの軍事物資が目を見張らずにいられないほど用意されてあった。日本ではほんのちょっとの間の寄港にも大さわぎをした原子力潜水艦がゆうぜんと港におさまっていた。
沖縄の人々は、そんなことより生活苦を訴えた。増産したブタや卵がベトナムへの軍の移動でさっぱりと需要がへってしまった。有利だったアメリカ人への貸し家業も、ドル防衛政策のひきしめで、借り手がへってしまった。左右にミサイル基地がある高校の生徒は、本土の高校生と同じくらい勉強しても能率は半分だと、すさまじい音に憎悪(ぞうお)をたたきつける。80%の農地を基地にとられてしまった中部の人々は、家族の1人が基地要員として働いて生活をささえている。だがそれも軍が動くたびに食を失う不安定さだとタメ息をつく。歓楽街の女性たちも「まともに働いていたら6、70ドルです。1か月で」と、口紅を塗ったりふいたりしていた。
みんなが基地依存経済の不安さをいまさらのごとく思い知らされた様子だった。
本土復帰の願いも4年前に比較して、じっくりと、強くかたまってきていた。
私の今度の旅の目的は日本テレビの「女性風土記」の取材であったが、沖縄の女性のたくましさを見つめていたら、ふと胸がいっぱいになってきた。苦難の生活の中で粘り強く耐えぬくのは女である。沖縄の女性のたくましさは、数百年の受難続きの歴史が生み出したものではないだろうかと思ったのだ。
戦後20年たったいまも沖縄には戦後という言葉が通用する。これでいいのだろうか。
1日も早く喜びも、本土といっしょに分かちあえる日がくるように、みんなが考え、努力をすべきではないだろうか。(引用おしまい)
返還40余年を経てなお、1965年当時とさほど変わらぬ“精神的な不安感”を抱える沖縄。秋山ちえ子の「これでいいのだろうか」との訴えは、秋山の死後も続いています。「1日も早く喜びも、本土といっしょに分かちあえる日がくるように、みんなが考え、努力をすべきではないだろうか」との言葉を、日本人はオバマ大統領の来日を機に共有してもいい。ヒロシマ・ナガサキ・オキナワは我が国の出来事。もちろん犠牲者も現在の住民たちも、私たちと同じ日本人です。
平和公園で大統領は語りました。
「私たちは声なき叫びに耳を傾ける(We listen to a silent cry.)」
“We”は、核保有国民のみではありません。当事者である私たちこそ声なき叫びに、より敏感でありたいものです。