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2016/05/30

「真田丸」第21回感想 「橋田壽賀子の戦端」

新藤兼人とシナリオ

優れたシナリオライターでもあった映画監督新藤兼人の自叙伝「シナリオ人生」(岩波新書)には、溝口健二監督に自作の脚本を見せた際の新藤青年の挫折がつづられています。
さっと書きあげて持って行くと、玄関に出てきた溝口さんは嬉しそうに相好を崩し、
「明日来てください」
とシナリオを持って奥へはいった。
わたしは自信があったので、溝口さんがページをめくって読みくだしていく姿を想像していい気もちになった。
翌日行って、階下の座敷で待っていると、溝口さんが脚本を持って現れ、どさっとわたしの前へ脚本を置いた。わたしはその音でどきっとして顔をあげた。
溝口さんは厳しい表情でいった。
「これは脚本ではありませんね。ストーリーです」
わたしは目を伏せた。
「こんなことじゃだめだね」
わたしは、がんがん鳴る頭でじっとしていた。
溝口さんは立って行った。(引用おしまい)
溝口健二のダメ出しにショックを受けた新藤は、シェイクスピア、イプセン、チェーホフ等の古典戯曲を読みまくり、ついにはシナリオとは発端・葛藤・終結の3段階で構成されるとの法則に気づいて、その才能を開花させていったそうです。
本欄では以前から、ストーリーテリングの要素が強すぎて人物表現がまるでできていない「真田丸」脚本の不備を指摘してきました。その点を踏まえ、第21回「戦端」を視聴します。

終結しかないストーリー

上洛を渋る北条氏政にしびれを切らした豊臣秀吉は、我が子のためにいくさのない世を築かんと、石田三成に北条攻めを指示します。
はい、出ました。大河名物“平和な世を実現するための戦争論”。第5回でも、滝川一益が比類なき強大な武力による平和論をぶっていましたが、いずれも唐突で動機が語られません。開戦を促す千利休も同様。新藤兼人言うところの発端・葛藤がなく、終結のみが語られています。私たちはシナリオ未満、ストーリーにすぎない劇を毎回見せられているわけです。
本多忠勝の上田来訪は、将来につながりようのない尺取り虫のコントでしかありませんから、ここで取り上げるほどのことではないのですが、後に真田信幸の助命に奔走することになる忠勝と信幸の関係性、“発端“をいずれどこかで提出せねばなりませんね。早い方がいいでしょう。婿を部屋に招き入れもせず、鴨居越しに握手するような気の利かない舅では、長い道のりとなりそうですがね。
北条を尋ねる家康の心配りも意味不明。「北条を心底救いたくなった。何の得にもならんが得にならんことをしてみたい」。ここでも、発端と葛藤なしにストーリーをつなごうとするから、セリフがいちいちチープに聞こえます。ちなみに家康さん、北条の嫁に出した人質を手前の都合でほいほい引き取ることができるなんて、戦国のならいでは不可能でしょうよ。情けをかけた場面のはずが、東照大権現の自己中シーンに見えました。
真田昌幸は、太閤の命でやってきた京都から、勝手に帰ると言い出しました。大坂編からすっかり情弱馬鹿に成り果てているとはいえ、感情に委せた愚挙が自分の首を飛ばしたり、真田家に大累を及ぼすこともわからん人物にされるとは。北条氏政以上の愚か者です。
親父がゴネたせいで、北条との対面では信繁が渉外担当にされました。豊臣家の馬廻衆、それも元服前の兄ちゃんが、一族一家の代表として大大名と交渉するのか。ひどいな。フィクションですから、もちろんやっても構いませんよ。構わないんだけど、それなら主人公に視聴者が納得できるだけの“発端”を与えなきゃよ。“葛藤”を見せねばさ。次回「裁定」のステージに進むために、RPGのプレイヤーが「ここは信繁で行こう」ってキャラを選択するのとはわけが違いますよ。
蛇足ですが、当時の武士は皆、西洋の椅子に慣れていたんですね。だれも座した、その違和感を態度に表さない。も一つ蛇足ですけど、このところナレーションの内容もストーリーばかり。「◯◯することになるが、後のことである」なんて説明要らないよ。

制作現場の改善に光明

脚本を除けば、最近は制作サイドの努力による改善が見られます。今回は、作中で鳴くセミの種類を時間の経過に合わせて変えていき、ラストの北条vs.真田の局面に臨む秀吉のバックにはツクツクボウシの効果音を入れて晩夏を表現していました。桜のシーズンに水田に稲が植えられていた季節感のなさが問題だった開始当初より前進しています。材木にカラーペンを吹いただけだった長巻の刃は、茶々が忍び込んだ兵器庫では顔が映り込むまでに磨き上げられ、武器としての説得力を得ました。
やや俯瞰した位置からの広角レンズを使った画は、面積の限られたスタジオに奥行きを感じさせ、左右も広く入るため、デジタル化以降のワイド画面対応の工夫として評価できます。照明にしても、家康・氏政の対面シーンなど気になる場面はあるにせよ、光源がめちゃくちゃというような失態は消え失せました。
思考停止的に劇中で毎回鳴らしていたテーマ曲や、スローカットのダダ流しも影を潜めたのは重畳至極。
後は脚本です。段階を踏まえた丁寧なドラマツルギーによるシナリオが待たれます。

「おんな太閤記」から踏み出せぬ精神

本作の視聴者が、ドラマではなくストーリーを延々見せられているのは不幸です。時にコントがはさまるのがどうやら新味らしい、「戦国あらすじ」には共感も感動もあり得ず、回が進むにつれフラストレーションがたまっていくばかりとなりましょう。この脚本を何とか軌道修正しなければならない。オリジナリティもありません。前述した“平和実現手段としての戦争”が頻出する本には目新しさ皆無。
今日は大河ドラマに付き物となった、NHK式積極的平和主義の源流を探ります。この元祖は、1981年の大河ドラマ「おんな太閤記」(橋田壽賀子作)までさかのぼれそうです。同年12月17日付の朝日新聞「気になったきまり文句」より引用します。
(前略)とにかく秀吉だの家康だの信長だのが出てくる時代は、みんなが好きだし、わかりやすい。それを女性の側から見たところに、虚構と知りつつ新しいおもしろさがあったと思う。
ただ、1年間を通じて、毎度登場するきまり文句が気になった。「天下の太平のためにはいくさをせねばならぬ」という意味のせりふが、時には秀吉の口から、ときには寧々(ねね)の口から、まるでこのドラマのサブテーマのようにくり返された。戦国時代という、いくさ抜きには何事もあり得ぬ時代に舞台を設定し、一方で平和を願う女の立場からものを言おうとすると、結局「平和のためのいくさ」ということになってしまうのだろう。
それ以上に他意はあるまいと思うが、それにしても今の今だけに、気になるせりふである。防衛・軍拡論議が高まる中で、「平和のための戦争」という大義名分を、もうちょっとでだれかが言い出しそうな気がする。戦争はいつの世にも平和を口実にする。この前の戦争中歌われた軍歌の中にも「東洋平和のためならば何で命が惜しかろう」とあった。このせりふが、同じ道への前触れでありませんように。(引用おしまい)
鈴木善幸内閣へ米国が我が国の防衛予算増強を迫り、日米防衛協力の名のもとに領海内に限らず海上航路に自衛隊が進出する“シーレーン防衛”なる言葉が飛び交ったキナ臭い1981年でした。そんな社会情勢下、大河ドラマで「平和のための戦争」がうたわれ続けたのです。
ごく最近の大河だけを見ても、「軍師官兵衛」「花燃ゆ」と、平和の成就を盾に戦争や暴力の肯定を促す作品が続きました。橋田壽賀子さんが戦端を切った好戦論は健在です。三谷幸喜さんがプロパガンダ臭の強い作風に流されているとは思いませんが、少なくとも現在の“平和論”は橋田ドラマの後追い、壽賀子クローンでしかない。しかも、中身があらすじに終始した脚本未満とあっては、ドラマが面白くなる展望は望めません。
「真田丸」に必要なのは、溝口健二の存在。「これは脚本ではありませんね」と言ってあげる人間です。だれかいませんか。言論状況までスガココピーの現場であれば、新しい映像劇が茶の間に現れることはないでしょう。