視聴率調査の時代錯誤
大河ドラマがつまらなくなっている原因の一つは、放送局自体が1話ごとの視聴率を気にしすぎているところにあると思います。毎度ネットで視聴率が何%で、前回より上がったの下がったのと話題にされ、経営サイドもそれを気にかけて要らぬ発破をかけるもんだから、作り手は物語の矮小化や破たんが平気で発生する小手先の小話を積み重ねて、数字を稼ごうとするようになる。スポンサーの広告費や会社の株価に直結する民放ならともかく、視聴率による直接的な金銭的問題に無縁の公共放送は、そんなもん気にかけず、現場が面白いと信じる作品を自信を持って作り、流せばよろしい。本欄では、視聴率などは番組の質と無関係である旨を繰り返し主張してきました。それを裏付ける調査結果があります。NHK放送文化研究所が発行している月刊誌「放送研究と調査」5月号によると、昨年11月に行った最新の調査結果では、地上波における「テレビ放送のみ接触(リアルタイム視聴)」する人44.0%に対し、「放送と録画再生の両方に接触(リアルタイムと録画の視聴両方)」は44.1%。「録画再生のみ接触」の2%を加えれば、リアルタイムのみの視聴者をゆうに上回る46%以上が録画した番組を見ていることになります。少数のサンプルからリアルタイムの視聴者のみを指標とする現在の視聴率調査を金科玉条のごとくあがめたてまつる神経の過敏に思い至ろうというものです。同調査では、「毎日のように」録画する人は全体の20.7%を占めており、この数字からも時代遅れのリサーチ手法に血眼になるの愚が理解できます。古臭い数字のワナにはまった感の強い「真田丸」第20回「前兆」は、まさに視聴率の底なし沼にはまった小手先劇に終始していました。
小手先の“真田任三郎”
本多忠勝の娘の嫁入りコントは笑えません。離縁した前妻が夫と離れたくないから新夫婦の側女に着任しましたなんて、どんな愛情描写なんだ。本作を見る限り、三谷幸喜さんは女性の心を描くのがドヘタクソか、ハナからその気がないのかのどちらかなのですが、女性視聴者に不快感を抱かせぬ配慮はできないものでしょうか。目先の笑いを取りに行くからこのザマです。視聴率至上主義なんですかね。寧・茶々・阿茶局の会談にも中身がありません。奥ゆかしい正室と天真爛漫な側室の対比を描くならここが見せ場でしたが、さらっと流されてしまいました。やっぱり女性は眼中にないな。前回から盛んに演技に工夫を凝らしている鈴木京香さんが不憫です。
あまりに主体性がなかった真田信繁を場当たり的にでも中心に置かざるをえなくなったのか、今回は急きょ、名探偵ごっこに尺を割きます。古畑源次郎だか真田任三郎だか知りませんが、秀吉の悪口が書かれた事件現場で消し炭やハシゴを使った犯人像(時代物なのに劇中で「犯人」と口走った時にはビックリ)を散々推理しておいて、最後は人物不詳のまま「民のだれかがやった」のだと、逮捕・送検もできぬマヌケなミステリでお茶を濁しました。堺雅人さんも毎週こんなセリフと役柄じゃたまらんでしょう。
やっつけキャラは秀吉にも及びます。本格登場7回目にして突然の狂気を帯びた関白殿下ですけど、狂う伏線もエピもなしに流し続けたこれまでの放送6回分はいったい何だったんですか。寧が急に旦那の性格補完用説明セリフを言わされます。視聴率を稼ぐ必要性から「ここで狂人にしよう」と考えたのでしょうか。茶々の懐妊を知って座敷に駆け込む場面では、映画「モンティ・パイソン・アンド・ホーリー・グレイル」のバカ騎士みたいなトランペット劇伴が流れて、秀吉の“変な人感”は伝わってきましたけどね。
今後の興味は、頭がおかしくなる前に朝鮮出兵を計画していた、と大谷吉継に喝破された秀吉の外国征服欲の出所。正気のうちに大陸侵略を企てた豊臣秀吉は、テレビドラマでは初めての体験です。女性差別感覚丸出しでデリカシーに欠ける脚本だけど、まさかのヘイトスピーチはやらないでね。
「大河」の源流を探る
「大河ドラマ」とは、その名の通り川のごとく流れる人物の人生を1年間にわたり提供するべきものです。1話完結形式の週刊連載漫画ではない。歴史ブログの端くれを自任する本欄では、大河ドラマが始まった1963年のNHKを振り返り、視聴率信仰に汚染されることのなかった、いにしえの源流の澄んだ水をのぞいてみます。1971年6月26日付の読売新聞「テレビと共に タレント繁盛記295」より引用します。記事中の人物の肩書は掲載当時のもの、年号は昭和です。(前略)「花の生涯」(原作・舟橋聖一氏、脚色・北条誠氏)が始まったのは38年4月。NHKがテレビ放送を始めたのが28年2月だから10年たっていた。この作品のプロデューサーを命ぜられた合川明氏(現「繭子ひとり」のチーフ・プロデューサー)は、そのころの熱気をこう語る。「当時の長沢泰治芸能局長(現N響理事長)からわれわれに、日曜の夜の全国民の目を全部NHKへ向けさせろ、と号令が出た。テレビも10年たったのだから、このあたりでテレビ番組の決定版をつくろうじゃないかということだった。内容にコクがあって、可能な限りの俳優を集めて、とにかくスケールの大きい作品をめざせとのこと。最初から歴史ドラマ路線で行こうということではなかった」社会部上がりで芸能は素人だった長沢泰治が理想論に賭けたテレビの可能性、その可能性にこたえんと奔走した職員たちが送り出したのが大河ドラマの始まりでした。「視聴者の心に踏み込んで、評価を得られる番組をつくる」。当時の彼らの心に、視聴率などという幻影が入り込む余地がなかったことが記事から読み取れます。
当時、民放でも“これがテレビだ”式の大型番組を続々登場させていた。“号令”を出した長沢局長の真意は−−。「NHKは視聴者から受信料をもらっているので、お金をかけてもいいから視聴者にアピールするものは勇気を出してやれといったんだ。あたりさわりのない八方美人的な企画よりも、視聴者の中に踏み込んで、そのうえで評価を得られる番組をつくれといった。そのためには、芸術性より芸能娯楽性の強い番組を選び、本(原作、脚本)と役者を厳選させた」
報道畑育ちの長沢局長から「テレビの娯楽番組に新風を吹き込め」とハッパをかけられた芸能畑育ちの坂本朝一芸能局次長(現放送総局長)は直ちに具体的な企画にはいった。「朝のテレビ小説と午後7時台の“バス通り裏”(注・テレビ黎明期の帯ドラマ)が当たったことから、テレビ文芸部の中に夜の深い時間帯に毎夜15分ぐらいの帯で“花の生涯”をやろうという企画があった。ところが毎夜の帯は諸般の事情から無理とわかり、それでは週1回の連続ではという企画変更になり、これを局長に進言した。相当しっかりした役者を使わないと危険だと内心思って進言したのだが、局長は“よし!やれ、金も時間もとってやる”と決断を下してくれた。この大河ドラマ・シリーズ誕生は、長沢局長の決断に負うところが多かった」(引用おしまい)
小手先の数字に踊らされた現場が、小手先の番組をこしらえる悪循環が続いています。放送局上層部は自分とこで出している雑誌の最新調査ぐらい精読して、石器時代の価値観でプログラム査定するのをやめなさい。作品と働く人間のスケールをどんどん小さくしているのは、土着化した視聴率信仰に違いありません。