1962年の出演を最後に銀幕を引退、その真相を語ることなく、沈黙を守ったままの永眠でした。彼女なりの筋を通した行き方であり生き方だったのでしょう。なぞの早期引退は生前、スウェーデン出身のスターだったグレタ・ガルボに比されたものですが、晩年にハリウッドのカネと名声への不満を吐露したガルボと違い、原は同居していたおいごさんにすら理由を話すことがなかったようですから、徹底していました。今日は、そんな原節子の良い意味でのガンコさ、周囲の騒音に影響されない芯の強さを物語るエピソードを紹介します。
戦前の映画界には、夏になると水着姿の人気女優が雑誌の誌面を飾るのが風物だった時期があったようです。新聞記事にも「夏につき物のハダカ写真」といった言葉が見られます。1938年の夏、ある美人女優がそれを拒否して、各撮影所の話題となったといいます。彼女の名は、もちろん原節子。読売新聞はこれを「爆弾宣言」と呼んで、原へのインタビューを敢行しました。同年7月5日付の同紙夕刊「“水着写真”は恥辱 原節子、断然拒絶す」から引用します。一部の句読点やかな遣いは、おじさんが現代風に直しています。
どうして水着の写真を撮らせないのであるか原のこの「爆弾宣言」の破壊力を理解するには、時代背景を考える必要があります。大日本帝国憲法下、女性には選挙権すらない人権軽視の戦前です。日中戦争は激化の一方で、軍人マッチョの野郎どもが闊歩していました。原節子、この時18歳になったばかり。ナチスドイツとの合作「新しき土」に主演したとはいえ、まだまだスーパースターではありません。私たちが多くを知らぬまま鬼籍に入った原ですが、その沈黙と隠遁生活を支えたのは、この媚びない、曲げない根性と無関係ではないと思えます。
余りいゝ形のものぢゃないわ。だって水着を撮るわけは、均整のとれたからだを見せるべきものなのでせう。それがどう、一種の興味からでせう。侮辱を感ずるわ。ある2、3の雑誌からも、わざわざお出になりましたがお断りしましたが(ママ)、日本人の水着姿なんてよくないのだもの。恐らく女優さんでなくとも、誰れ(ママ)でも厭(いや)だと思ふでせう。他の方は断るときっとなにか云はれるから、仕方なしに撮るのでせう。
日活時代に水着の写真がある
あのときは、わけもわからずに映画に入った16歳のときですし会社からの命令のまゝ大勢の方と撮ったのですわ。
会社からの命令だったら今でも撮るか?
飛んでもない。それだけはお断りしてありますし、こんどはっきりお約束もしました。会社では、宣伝写真も仕事の一つだよとおっしゃいましたが、こんなことも、これからの女優は考へなくてはならないと思ひます。それよりか俳優なら演技を勉強することね。
劇映画で水着の必要があったらどうするか
裸になることが、その劇の主題になってゐるなら仕方のないことですが、ご時勢からいっても、そんなバカなこと絶対ないと信じますわ。たいていは、ヘンな歪んだ場面の彩りからなんですもの。なんといっても絶対に厭です。(引用おしまい)
以下、蛇足です。
訃報にあたり、情報の少ない中、裏方の結髪さんとの交流エピソードを引き出した東京新聞は、芸事に強かった都新聞の遺伝子を継ぐだけあってさすがの報道でした。お話にならなかったのは朝日新聞。主演作「白痴」(黒澤明監督)を“戦後映画を代表する作品”だと書いていました。本来の上映時間が4時間以上あった本作は、松竹が大幅な編集カットを断行したせいで、人物造形や心理描写が散漫になった凡作として公開されたというのは映画ファンの間では有名な話。体験を伴わず頭だけで書いているんですか。落語家の立川談志が死んだ時も、記事の中身がスカスカだった朝日の芸能はあてになりません。
著名人の死に際してのメディアの役目は、自分たちが悼むのではなく、受け手である視聴者や読者に故人を悼むための情報を送ること。受け手自身が先に思考できない情報は、一見わかりやすそうでいて、実は内容に乏しい。あたかも女優の水着写真のように。