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2015/10/25

顔のないアベ新聞たち

ドイツ映画「顔のないヒトラーたち」を鑑賞しました。戦後13年の西独で、アウシュビッツでの殺人に加担した罪人たちをあぶり出し、裁判に持ち込むまでの若き地方検事らの姿を描いた、実話を元にした作品です。
1958年当時のドイツでは、ユダヤ人強制収容所の存在が一般に知られておらず、仮にその名を知っていても、それが保護拘禁施設だと誤解している人もいたようです。
主人公たちは、執拗な妨害と捜査への非協力に遭遇します。何しろ、ある程度の年齢に達した市民はスネに傷持つ輩ばかり。それらをはね返して裁判までこぎつけるのですが、ハンサムな検事も、コンビを組む新聞記者ら周囲の応援団も、正義感に燃える月光仮面や仮面ライダーではありません。重い過去と、それを引きずる現在を背負い、もがき続ける、心の弱い一個人ばかり。社会や組織に依存して生きざるを得ない人間たち、弱い個人に何ができるのか、とのテーマを観客につきつけた秀作でした。
今の日本で、メディアに所属する個人が思考停止して権勢に流されるままとなれば、それは媒体の安倍チャンネル化、アベ新聞化であると言えます。例えば朝日新聞。
22日付の夕刊1面トップに、文化の日の名称を明治の日に変更しようとする運動を報じる記事がデカデカと掲載されました。ほんの一部の戦前回帰派によるチマチマした欲望にすぎない狂信的な妄動を、天下の大事であるかのごとく報道する必要があるのでしょうか。
こんな駄ボラを大きなムーブメントだと、読者に誤解させる要素を含んだ報道ではないのか。反対意見も載せたから両論併記だってか? それで不偏不党だってんなら、憲法9条改訂運動だって1面で堂々と掲載すればよろしい。反論くっつけりゃいいんでしょ。
朝日は23日付朝刊でも怪しい記事を載せていました。「参考人学者の意見指摘を問題視 自民、船田氏を更迭へ」から引用します。
(前略)憲法改正推進本部は党総裁直属の機関。野党時代の2012年、「国防軍」などを盛り込んだ保守色の強い憲法改正草案をまとめた。(太字は引用者による。引用おしまい)
手元の広辞苑によれば、「保守主義」とは「現状維持を目的とし、伝統・歴史・慣習・社会組織を固守する主義」とあります。戦後70年、我が国は現行憲法の「陸海空軍その他の戦力は、これを保持しない」(9条2項)を堅持してきました。これを守るのが現状維持たる「保守」であるはず。草案は「反動色の強い」と書かれるべきですが、朝日が「保守色」と言い換えたことで、その過激性が弱まっています。読者をミスリードしようと画策しているんですか。それとも、これだってバランスに気をつかったフヘンフトーの一例なのでしょうか。
毎日新聞はどうでしょう。違憲の疑いが極めて濃いと言われる安保法案が参議院で強行採決された翌日の9月20日付の社説「安保転換を問う…法成立後の日本」から引用します。
(前略)新法制の成立で私たちが失ったものもあるが、希望も見えた。
多くの人が安全保障や日本の国のあり方を切実な問題として考えるようになったことだ。
憲法学者、法曹界、労働組合、市民団体だけでなく、これまで政治への関心が低いと見られていた若者や母親ら普通の市民が、ネットなどを使って個人の意思で声を上げ(ママ)、デモや集会に参加した。これらの行動は決して無駄に終わることはない。(引用おしまい)
何を言ってやんだ、って感じです。SEALDsの学生ら市民を持ち上げているのですが、法案の是非を問うべき大事な時期に、戦後70年談話なんてアホみたいな言語浪費の文言に日々延々拘泥して紙面をつぶしといて、いざ成立したらマスコミュニケーションがミニコミュニケーションに希望を託すって何だよ。マスコミとして法案に対し、何をしようとして何ができなかったのか表明していただきたい。
両紙とも、消極的参加の名のもとにアベ新聞となったとのそしりをまぬがれますまい。愛国心はならず者たちの最後の避難所だと言った人がいますが、朝日と毎日は、不偏不党を臆病者たちの避難所にしているのでしょうか。
臆病者は読売新聞に学びましょう。1950年代後期の読売「編集手帳」は、編集綱領を声高に叫んだり読者の反応に逆ギレしたりと、時に感情的となる筆圧が実に刺激的な読み物です。縮刷版を図書館のデスクで読んでいて、つい辺りをはばからず、ぷっと吹き出すこともある、その熱がすごい。木で鼻をくくったようなチューリツロンなんかより、よほどためになります。1958年10月1日付の同欄から引用します。
(前略)おんなじ事の繰り返しはニュースにはならぬという。いや、それはニュースであるにちがいないのだが、鈍くなった老記者の感覚は、もはやそのことに“新鮮なおどろき”や“おう盛な好奇心”を感じなくなっている。
これではいけない。わたくしたちはつねに起伏する事象に対して“新鮮なおどろき”を感じなければならぬはずだ。金門、馬祖の砲声(注・この年、中国人民解放軍が台湾・金門島への侵攻をめざし島を砲撃した)にもはや大しておどろかなくなったなどという慣性は、わけても危険である。これは「戦争」か「平和」かのわかれ道ではないか。こういうことに平然としていてはいけない。
「平和を守れ」という叫び声も、いまの日本ではもはや左翼用語のひとつとなってしまった。左翼小児病ならざる「不偏不党」「厳正中立」の良識病にとりつかれている大人(おとな)たちは「平和を守れ」などとこどもっぽいことはいわなくなっている。
(中略)いまはマス・コミの黄金時代だそうだが、その新聞やラジオが、日本を二分するような大問題が起っても(ママ)つねに「不偏不党」で、ただ事実を並列して読者や聴取者に提供してその判断に任せるだけでおのれの意見はいつもうしろの方にかくしている。これは一種のひきょうだ。
マス・コミの魔力だなどといわれるが、わたくしたち新聞記者までがその神通力をもっているようにうぬぼれるのはよくない。マス・コミのあり方は国民に批判され、ときに袋だたきにあっても、おのれの所信を勇敢に発表すべきであろう。(引用おしまい)
「不偏不党」の化けの皮をはがした見事な一文だと、うなりました。いまこの時、「平和を守れ」と叫ぶことに何の恥ずかしさがあろうか。良識病がまん延して個人の姿が記事から読めなくなっている顔のないアベ新聞たちと、てらいなく往来でその声を挙げる学生や主婦ら闘う個人個人のどちらの方がマトモなのでしょうね。
平和を守れ! 平和を守れ! 平和を守れ! いいじゃん、これ。