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2015/06/27

自民党の勉強会は沖縄をどう思うのか

沖縄のある島に住むおばあさんは、狭くてやせた農地を毎日一人で管理して、わずかな収穫で貧しく暮らしていました。
なぜ、独りぼっちなの? 夫は戦死したから。
どうして、そんなひどい土地で野菜を作っているの? 元々持っていた豊かな場所は米軍に接収されたから。

だいぶ昔に読んだ話なので、時期も出典も覚えていませんが、内容が強烈だったため、逸話だけは記憶しています。
沖縄には、彼女のような境遇の人たちがたくさんいたことでしょう。太平洋戦争では本土の捨て石とされた島で家族を失い、戦争が終われば終わったで異民族支配による搾取に遭う。殺されるだけ殺された沖縄からは、戦後もベトナム人を殺すための兵士や爆撃機が飛んでいきました。殺し合いが嫌いになるはずです。1972年の返還に沖縄の人々が熱狂したのは、日本を愛していたからではなく、アメリカの思うがままの支配から脱することができると信じたからでしょう。戦争にほんろうされ続けた沖縄人の心を少しでもしんしゃくする義務を、本土に暮らす私たちは負うべきだと思います。
まずは自民党の議員連中ね。党内の勉強会で、「沖縄の新聞をつぶせ」とか「左翼勢力に乗っ取られた沖縄のゆがんだ世論」とかいう趣旨の発言が相次いだそうです。言論の自由の問題以前に、人としてどうよ? 戦争に安保と、本土の身代わりとして長年の艱難辛苦に耐えてきた沖縄への理解がなさ過ぎます。
明治の初めまで、沖縄は日本の国土ではありませんでした。江戸期には薩摩藩の支配を受け、中国にも朝貢していた独立国です。
外国からの日本侵略を防ぐには領土を海外へ拡大すべしとする、大アジア主義を掲げた吉田松陰の侵略思想を、長州の井上馨らがやがて実践。琉球王国は「琉球藩」なるでっち上げの名称を与えられ、やがて併合されます。今日はそのやり口の一端を、当時の新聞記事からのぞいてみます。
1879年3月8日付の大阪朝日新聞から引用します。
去る4日も内務省において琉球藩地出張所在勤を命じられし者8名にて、その内5名は新拝命任官以下およそ80余名。その他小使(こづかい)まで人選にて、出張を命ぜられしは6名にて各在勤2カ年なり。右はいずれも西南の戦地を踏み来たり者多しという。(引用おしまい)
西南戦争を戦った猛者を選りすぐって琉球に送ったんですね。背後に歴戦の兵士が居並ぶ行政使から併合を突きつけられた琉球人たちが、心穏やかでなかったことは容易に想像できます。
直後に琉球を我が物とする明治政府。その際の告諭書は有無を言わせぬひどいものです。1879年4月15日付の読売新聞から引用します。
旧琉球藩下一般人民に告諭す。
今般琉球藩を廃し、さらに沖縄県を置かれたるにつきては、今後いかよう成り行くべくやと苦心の者もこれあるべく、よってその主意の大略を告示せんとす。
そもそも、この琉球は古来わが日本国の属地にして、藩王はじめ人民に至るまで、皆共に本邦、天皇陛下の臣民なれば、その政令に従わざるべからず。しかるに、明治8年5月29日、おなじく9年5月17日、本年1月6日をもって御達しの御主意これあり候ところ、藩王においては、その使命を奉ぜず、不遵(注・従わないこと)の奉答書を呈したる段、実に差し置かれがたき次第に立ち至り、理勢やむを得ず、遂に今般の御処分に相なりたるなり。
しかれども、藩王の身の上及び一家一族においては、優待の御処分をもって、将来安堵せしめ、かつ士民一般の身の上、家禄、財産、営業等の上においても、苛察の(注・厳しい)御処分これなく、勉めて旧来の慣行に従うの御主意なるのみならず、かえって旧藩政中苛酷の仕方、または租税諸上納物等の重瞼なるものは、追って御詮議の上、相当寛減(注・広く軽減する)の御沙汰これあるべきにつき、世上の流言風説等に惑わず、安んじて各自の家業を相励むべし。この旨もれなく告諭するものなり。

処分官内務大書記官 松田道之
沖縄県令心得内務少書記官 木梨精一郎
(明治)12年3月27日(引用おしまい)
強盗みたいでしょ。かくして琉球は沖縄県となり、急速な皇民化教育が進められていきます。大田昌秀元県知事は戦前、「鉄血勤王師範隊」なんて幕末の志士みたいな時代錯誤の名を冠した組織にいたんですからね。沖縄は相当に狂っていました。狂わされていました。
無理矢理の併合の末に、多数の戦死者と戦後の基地負担をこうむった沖縄。日本国民になったがゆえ、どれだけの血と涙が流されたことか。その歴史を少し探ってみるだけで、自民党議員の無知と不勉強が察せられます。過去に学ぶメリットは、自分が国会議員よりマシだと思えることにあります。