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2015/06/30

「花燃ゆ」第26話感想「久坂のお約束」

「水戸黄門スペシャル」(TBS系)鑑賞。悪人が昔の東映特撮「仮面の忍者 赤影」みたいにおおげさで笑えました。楽しそうに演じる六平直政さんに往年の怪優・汐路章が重なりました。津川雅彦さんの関西弁がひど過ぎるのはどうして?
椋梨藤太風車の弥七には男の色気がありました。内藤剛志さん、まだまだイケますね。大河も、ヒロインを閉じ込めた大奥からカメラをはずして佐幕派をクローズアップ、「椋燃ゆ」として出直せば、放送局念願の女性ファンがつくかもしれませんよ。
「花燃ゆ」第26回「夫の約束」を鑑賞しました。「口約束」と言い換えた方が良かったですね。「あくまでイクサを避けようとする久坂」というナレーションが入りますが、前週、吉田稔麿を失った久坂は「イクサになっても構わん。殺しちゃる」と、私怨にかられて、必要以上に好戦的でした。登場人物の設定が毎週変わるのはいかがなものか。もっとも、暴発阻止派から進発派に宗旨替えした先週の瞬間キャラクターよりはマシかもしれません。
野山獄に現れた周布政之助は抜刀しています。酔っぱらい設定ですが、武士、しかも藩の重役がみだりにダンビラ振り回すエピは、周布というキャラを茶の間に提出する上で本当に必要だったのでしょうか。
吉田稔麿の死を迎え、主人公が弔問に訪れます。出迎えた友人が第三者に「兄上は、兄上は」って言うの、やめてくれませんか。「兄」でええやん。放送用語委員会は「花燃ゆ」向けに敬語マニュアルを発行すべし。
思い出したように再登場の稔麿母は、名札を広げて息子を偲びます。「武士になった証じゃ。武士になってこの国を救うと」。あれれ、「花燃ゆ」での吉田松陰は、身分に関係なく国を憂う志士を集めていませんでしたか? 武士であるアイデンティティって、ドラマでしつこく提示するほど大事なモノなのでしょうか。そういえば魚屋は、「(武士ではない)わしのような弱い者が先に死ぬべし」なんて階級差別的遺言とともにあの世へ行きましたね。
稔麿の死は突然、「長州を守るためよね」なんて風に美化されます。これまで「日本国、日本国」と大風呂敷を広げてきたのに、突然長州限定防衛論にするのはおかしいし、吉田稔麿は国士ではなく藩の将来だけを勘案する小物に矮小化。長州を守るために御所を襲撃するんですか?
ヒロインが夫の思いを言い放ちます。「稔麿さんのこと、どれほど悔しゅう無念に思うとるか。それでも決してイクサにはせんと」。繰り返しになりますが、久坂玄瑞は「イクサになっても構わん。殺しちゃる」と口走っていましたけどね。戦闘地域に大軍引き連れて、「イクサにはせん」のですか。藩の存立危機事態か、孝明天皇の後方支援なのか。どんな安全保障の理屈でドラマを成立させんとしているのか、興味深いですね。大河ドラマは現在進行中の国会のように会期延長できません。早々に整合性を取って下さい。
久坂が和平工作に奮迅する様が描かれるのですが、東出昌大さんは他の役者が話している間、口が開きっ放しです。鼻でも悪いのかしら。画面に締まりがなくなって、共演者をあまねく地獄へ道連れ。直した方がいい。東出さんの演技は「花燃ゆ」が底だと思っていましたけど、先週の「永遠のぼくら」(日本テレビ系)では滑舌・表情とも、これでお金稼いではいけない壊滅的レベルでした。本気で俳優になる気なら、厳しく正しい師匠に付かねばえらいことになります。泣くのが嫌なら、さあ歩け。
天下の大事と立ち働く最中、のこのこ芸妓に会いに行く久坂。来島又兵衛との議論、桂らとの会話等々、長州と日本国への思いはこれで台無し。私事の小事に走る走る。またもキャラを壊してしまいました。辰路の京都弁は、よりひどくなっています。公家衆の「天子さん」含め、関西言葉はこぞってめちゃくちゃですね。聞きかじりの大阪弁っぽいセリフにすれば御所で通じるものだと思って書いているのがわかります。関西ナメるな。みんなで津川雅彦さんのマネか。
文は椋梨の奥方・美鶴を訪問。ここでの若村麻由美さんを見れば、今回はそれでよろしい。戦地に夫がいるのに、さしたる理由もなく引っ越し先を探すスットコどっこい相手に、しっちゃかめっちゃかな説教悪役台本。若村さん、さあどうこなす!?
でかい芝居でこたえます。明らかにオーバーアクトですが、それを継ぎに継ぐことで強引に画を自分が持ってっちゃう。名優滝沢修が、ダメ台本や格落ちの共演者が相手の場合によくやってた演技プランですね。若村さん、滝沢修の貫禄でした。ホメ過ぎかもしれませんが他にホメるとこがないんだから、いいでしょ。大人の色気も十分。ヒロインを大奥に投げ込んだ後は「鶴燃ゆ」としてやり直せば、男性視聴者も画面に釘付けになりましょう。まあ、このシーンのそもそも論は、メリル・ストリープをエド・ウッドの映画に出すなって話なんですが。
今回、急にイクサを止める平和主義者の仮面を無理にかぶせられた久坂玄瑞は、過激派に押し切られ、無能をさらしたまま禁門の変に巻き込まれる能なしとして死を迎えるハメになりました。いいのか、これで?
ここまで主に劇のキャラクターを主題に感想を書いてきました。今日はその点について考えてみます。
脚本のキモはテーマ・キャラ・ストーリーだとは、よく言われることです。魅力ある登場人物は、視聴者の耳目を集め続ける上で不可欠な要素です。久坂玄瑞のここまでのブレ方一つとっても、本作に人物造形をやる気がないのは明らか。泥酔して白刃ブン回す周布政之助、障害者である文の弟・敏三郎らも、そのキャラクターの必然性が、「史実(または伝承)にあるから」で、箇条書きに処理されているのだとしか思えません。
特に敏三郎という人物は、ろうあ者を劇中に提出する意味を、視聴者に納得させねばならぬ責が局側にあります。これまでのところ、第23回で「何の役にも立てんなら、なんでボクは生きとるんじゃ」なる障害者差別を助長するような設定を出してきたのが、唯一の人物造形の意味らしき部分だというのは問題があると思います。
障害者を扱うな、と言っているのではありません。本作が大好きな言葉、「志」があれば、むしろ扱うべきケースだってあります。1986年5月10日付の読売新聞夕刊「放送塔から」から引用します。
(前略)2日にフジ系で放送された「おふくろ殿」。浜木綿子主演で、耳の不自由な息子とその恋人をめぐる頑張りかあさんの愛情物語で、前編を手話と字幕スーパー付きで製作されていた。手話を使ったドラマはこれまでにも時々あったが、全編字幕スーパー付きでの放送は、2時間ドラマでは初めての試みだった。
金曜女のドラマスペシャル枠で、視聴率20.2%(ビデオ・リサーチ調べ)は、良い成績だが、それよりも何よりも、耳の不自由な視聴者から「久しぶりにドラマを楽しめた。ありがとう」の電話が局に百本近くあった。本紙「放送塔」へも、9日付に載った分も合わせて、これまでに32通が届いている。
「聴覚障害者とその家族に希望と勇気を与えてくれました。健聴者にも、聴覚障害者を正しく理解してもらえるよい機会でした。出演者の牧口昌代さんも、ご両親が聴覚障害者の由。立派な女優として活躍されているのを知り、私も同じ障害の娘を持つ身で励みになりました」(投稿者の個人情報が書いてありますが、引用者の判断で省略)
その他、耳の不自由な方、その家族、あるいは健康な人々と、立場はそれぞれだが、ドラマから得た感激がつづられている。
全国で耳の不自由な方が200万人もいること、手話を使いこなせる人は20万人ほどであることも、このドラマをきっかけにして知った。今後もこうした企画と放送のぜひ多くなることをーー。(引用おしまい)
志のある作品に視聴者は感動します。聴覚障害者の物語である「おふくろ殿」のキャラクターづくりは、さぞ難儀であったことでしょう。当時のフジテレビの英断と、それを結実させたスタッフ、俳優たちに視聴者は反応しました。
「花燃ゆ」の久坂はまもなく死にます。この崩壊しきった人物像は、もはや取り返しがつきませんが、敏三郎をはじめとする生き残りについては、今後は大事に扱われ、練られていくことで、大河ドラマにふさわしい人間となっていくことを願います。