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2015/03/08

「花燃ゆ」第10話「エリート藩校vs.ヤンキー愚連隊」

ガンバレ、椋梨。お前が正しい。大河ドラマ「花燃ゆ」第10話、鑑賞しての感想です。長州藩の将来をおもんぱかれば、松下村塾の連中は蛮勇のフグにあたって数日入院でもしてくれた方が幕末のためには良かったかも。ああ、いちいちでしゃばる文も毎度の菓子の食い過ぎで大人しく寝込むくらい、そのムダな元気を消耗させたい。
松下村塾が存続する意味がわからん。三畳間でちまちま攘夷、攘夷とぬかすんだったら、殿様の前で表明せい。「異人をぶち殺す思想と手段を広めたいから塾生を江戸に出せ」と。それでこその松下村塾でしょうが。
伊藤利助(博文)入塾の経緯が、またもはしょられました。武士階級より下を相手にしていなかった吉田松陰が身分の低い伊藤を迎えたのは、来原良蔵(または栗原良蔵)の推薦があったからですが、賤民も迎えるおおらかな塾の虚偽性格付けをしたいせいか、脚本はそこを無視します。
前回、「学問がしたい! 理由、わからん!」などとわけのわからぬ入塾理由を申し述べた高杉晋作を、あっさり許した松陰は、塾生の江戸行きに対し、「聞いとるのは、なぜ学ぶかじゃ? 君の志じゃ?」としつこく詰問。何、この朝令暮改? 今回の松陰のセリフを借りれば、「志のない、君のような脚本家が大河を書いてもムダです」。遊女が久坂玄瑞に言い放つ「カワイイ」って何だよ。頭かきむしった。
高杉の襟足に垂れた地毛がみっともないです。首元の毛髪も伸ばして結うのが髷。時代劇、台無し。時間の制約があるのかもしれませんが、プロの床山さんは泣いているでしょう。
ここで冷静になって、藩校とは何か考えてみましょう。名の通り、「藩がこしらえた」エリート学校です。藩の将来のための人材を養成する目的があります。一方の松下村塾。国禁を犯した罪人が運営する愚連隊の私塾です。長州藩からすれば江戸時代のヤンキー集団。連中の主張は、「山口県選抜の学生じゃなくて、わしらヤンキーを縁故で東大に就学させえ」というぐらいの、むちゃくちゃな中身なんですよ。
このしっちゃかめっちゃかな言論が、いつのまにか「お文さんのおかげ」で着地するとこがこの脚本、イカレてるんですが。
さて、この台本を役者さん方はどう演じるのか。何度も言及していますが、久坂玄瑞はアウトです。主演の文も今のところ、何事にも口を挟むうるさいだけの嫌われ者。小田村伊之助も声の大小の加減がどうだか。わざとらしいのです。 明倫館の学生をしかりつけるところも、彼らのだらしない部分が視聴者に提出されていないのに、やり過ぎでしょう。あ、これは脚本と演出の問題か。
松下村塾みんなで平身低頭する場面なんか、駄朝ドラ「ごちそうさん」の披露宴シーンで、キムラ緑子さんに衆人みんなが土下座かますバカショットの再現かに見えました。あ、これも脚本その他の問題ですよね。「諸君、狂いたまえ」って、言われるまでもなく皆狂うてるわ。
 北大路欣也さんも、セリフがバカ丸出しだから気が削がれるんでしょうが、気持ちが入っていませんね。周囲の演技が大きいせいか、キンちゃんの芝居も意味なく大きいです。つまり「花燃ゆ」はこぞってオーバーアクト。まあ、瀬戸康史さんからは一所懸命さが伝わってきましたね。ひょっとすると化けるかも。
 今から60年以上前、作家の大佛次郎が自作の映画化作品「乞食大将」を見た感想を語っています。時代劇の演技論として、的を射ていると思われますので取り上げます。
1952年3月27日付の朝日新聞「時代劇映画の進歩」から引用します。
(前略)現代劇では生活が現代だから、どんな客もすぐにあらを見つけ出すから制作者も油断しないが、時代劇の方ではその点ごまかせる。その故か、今日でも時代劇映画にはまともでない性格が付きまといがちで、派手なだけでいつまでも訴える力が弱いし進歩がないのだと言えるのではないか? もっと人の心を真実で動かす強力な時代劇を見たい。時代劇を特殊な性質から出られぬものと考えて置くのは間違いである。この点で優れた現代劇映画の監督小津(安二郎)君あたりが時代劇を作ってみせてくれたらと望んでいる。
私は、時代劇にたゞの写実を望んでいるわけではない。その意味で付加へて置きたいのは、時代劇映画で俳優が現代の人間の表情をすることに対するひそかな疑問である。これが不思議と、かつらをつけた顔を醜く見せる。これには確かに何か工夫があってよい。あまりナマでは服装と不調和で醜く見えるのだと言うことである。昔の武士たちの顔は、もっと動かなかったか、すくなく要約的に動いたのではなかろうか? 能面の動きとか、カブキ劇の顔の表情からも何かを得られるに違いない。時代劇映画には、まだ研究してよいことが、いろいろあると思われる。(引用おしまい) 
大佛はなぜ小津安二郎の名を挙げたのか?  小津は、笠智衆、原節子らあまたの演技者に大きな演技を求めず、自然な、まさに自然なしぐさで物語を、きちんと物語ることを求めました。大佛次郎が言うところの「昔の武士たちの顔は、もっと動かなかったか、すくなく要約的に動いたのではなかろうか?」との問いかけと「花燃ゆ」を重ねてみましょう。そんなトレーニング、メソッドが今の俳優さんにあるのでしょうか?
「花燃ゆ」の時空超越ハイパー駄脚本にクサい大芝居が加われば、見るに耐えないのは当然。制作サイドがダメである以上、俳優側の抑止力が視聴者にとっても、演じる役者の自己イメージ防衛にも大切だと言えましょう。