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2015/02/13

自己責任論の狂気

後藤健二さんたちが殺されたのは自業自得だ。戦闘地域に行くヤツがバカだ。イラクやミャンマーで何人もジャーナリストが死んでるのに、懲りもせずに好き好んで入って殺される。あまつさえ政府に迷惑をかけるとは何事か。死んで当然。
昔フィリピンで拉致された商社の支店長がいたが、我が国より危険な場所に行って働くのが悪い。自動ライフルが巷にあふれるアメリカで撃ち殺される日本人も同じこと。市民が銃器を持てない日本にいれば死なずに済んだのだ。
振り返れば先の戦争で死んだ人間だって自己責任だ。密集した都市部に居座ったから、空襲で焼け死んだんだろよ。
ヒロシマとナガサキで被爆した連中も同様だ。せっかく生き残ったのに、お上に原爆症認定訴訟を起こすなど、何事であるか。自己責任ではないか。お国に押しつけるな。
自己責任を全うできないヤツらは皆、死ね死ね死んでしまえ!

「流行り」の自己責任論を突き詰めれば、こんな感じかな。誤った「愛国」が行き過ぎです。政府の望まないことをすれば攻撃、異を唱える相手には排撃。そのうち水俣病患者認定問題などでも「魚を食べたのも自己責任」とか「公害特権」などと言い出す頭のおかしいのがわいてきかねない日本です。後藤さんらに投げかけられる、めちゃくちゃな自己責任論にヘキエキとしていたのですが、しょせんはネット、確たる思慮もなく吐き散らしてるんだと考えていたら、2月9日付の読売新聞夕刊にこんなコラムが。
「命か、憲法が保障する渡航の自由か、議論するまでもないだろう。“蛮勇”が途方もない代償を払うことを思い知ったばかりだ」(よみうり寸評より引用)
医療や芸能の記事に非凡な切り口を見せる、あの読売新聞が何を言うのですか。後藤さんはジャーナリストだったんでしょ。仲間じゃないの? 大組織に所属していないフリーは、ただ迷惑な存在なの?
古新聞マニアとして昔の記事をのぞくと、日清、日露、第一次世界大戦、日中、太平洋戦争と、大勢の戦場記者が海外で取材をしていたのがわかります。ベトナムや中東など、日本が軍隊を送っていない戦いにも、日本人は足を運び、少なくない数の人たちが命を落としています。
死者たちは有名無名さまざまなのでしょうが、アメリカにも国民に愛され戦場に散ったジャーナリストがいました。その一人がアーニー・パイル(Ernie Pyle)です。沖縄戦で死亡、戦後に進駐軍が東京宝塚劇場を関係者慰問施設として接収した際に「アーニー・パイル劇場」に名を替えたほど、戦場報道に貢献したそうです。
1950年2月13日付の朝日新聞「天声人語」から引用します。
(前略)かれの名が劇場の名になるほどアメリカで人気があったのはどういうわけか知らなかったが、かれの通信を集めた「最後の章」を見ると成程とうなずけるものがある。人間だったのだ。
従軍記者といっても、戦争のことを伝えるよりもむしろ戦場の人生、人間としての兵隊のことを描いている。
英雄的な劇的な事情を取り上げ肩を怒らして戦争の意義を説くというものではなく、街頭でスケッチするように坦々として深い目でながめている。
沖縄上陸の前夜の情景の中で「24時間したらこの船のたれかは生きてはいないだろう」とズバリと書いている。同島に足もぬらさずに無事上陸した時は「これじゃマックアーサー(マッカーサー)将軍の上陸みたいじゃねえか」と報じている。
「人間は死んでしまえばすべてはどうでもよくなっちまう。かれらは死んで他のものは生きている」――あのころの日本なら反戦記者として処刑されたようなことを平気で書いている。もちろんアメリカの社会が平気で書かせているのでもある。(引用おしまい)
後藤さんも、紛争地域で暮らすこどもたちへの視点を忘れない「人間」だったと報道されていますね。
彼を持ち上げろとは申しません。「後藤健二劇場」なんて要りません。ただね、後藤さんの行為をろくに振り返ることなく批難する権利なんて、だれにもないのだと言いたいのです。自己責任とは、後藤健二さん自身がそうだったように、当事者本人だけが発することを許される言葉なのだと、思いたいのです。