ジョニー・デップという俳優さんは達者ですね。映画「ブロウ」で、これまた上手なレイ・リオッタとの演技合戦を見せつけられ、実はすごい役者だと舌を巻き巻き。ディズニーものなんかに出てる時はどうでもいいんだけれど。
最新作「チャーリー・モルデカイ」も楽しみですが、引っかかるのが作品のコピー。映画館で予告編が流れたのですが、「“ちょびヒゲ”が世界を救う⁉︎」なる宣伝文句でした。
ジョニーがつけているヒゲは「カイゼルヒゲ」。ちょびヒゲは、ヒトラーや紅白歌合戦で桑田佳祐さんが装着していたタイプです。同じチャーリーでも、チャップリンなら無問題ですが。
たとえ映画がロクでもない凡作愚作であっても、お客を入れるために労を惜しまぬ、口舌の徒(ホメ言葉です)であるべき宣伝マンに言葉の知識がないとは何事かと憤っていたのですが、劇作家の三谷幸喜さんも同じことをエッセイで書いていました。
三谷さんの尻馬に乗ります。東宝映画往年の名プロデューサーにして、社長も務めた藤本真澄のエッセイを取り上げ、宣伝部員の心意気について考えてみます。1961年11月2日付の読売新聞夕刊の連載「映画と宣伝10」から引用します。
タクシーに乗った時など、運転手君に「“小早川家の秋”って映画見た?」などと、なにげなくきいてみる。「いいんですってね!まだ見てないんですけど」ときたら、しめたものである。町の人々の話題になっているということだ。その意味で、最後の仕上げともいうべき試写宣伝の重要さは、いうまでもない。作品の評判が町に完全に浸透するのには、前にも書いたように2週間は必要なのだが、この2週間を有効に利用するために、宣伝部はいろいろと試写会にもくふうしている。こんどの「小早川家の秋」では、電話帳で小早川という家をさがして試写に招待した。東京の電話帳にのっているだけで、53軒あったそうだ。この方法は各地でも行われており、試写会を見ていただいた方には、テレビなどに出て感想をのべてもらっている。ところで、宣伝がいくらよくても、作品そのものが悪い場合は、けっして当たらなくなってきた。これはよいことである。やはりよい作品を選ぶ力が、観客大衆にできてきたと見るべきで、けっしてお客さんを甘く見てはいけない。誇大宣伝が一応成功したとしても、作品の質が悪ければ、封切り後日をへるに従って急カーブでお客が減ってくる。だから宣伝というものは結局、作品の質と内容を、正しく知らせるためにあると考えることが必要だろう。スチールのことを書き忘れたが、1枚のスチールが作品内容を的確に表現する場合があるから、おざなりにはできない。以前は監督もスチール撮影などというとめんどくさがったものだがさいきんは積極的な監督が多くなった。黒沢明君などはうるさい方の代表で、だから彼の作品のスチールには傑作が多い。「七人の侍」の三船敏郎君のスチールなどは、海外でも有名になっているのに驚かされた。はじめて会った外国の写真家が、三船君に「七人の侍」の菊千代の飛び上がったポーズを注文するのだ。はじめにも書いたが、宣伝部は金を使ってばかりいて、なかなかにハデな部門のようだが、実際には縁の下の力持ちの部門である。根っからの宣伝屋の、死んだ東和映画の筈見恒夫が、よくいったものだ!「宣伝なんて映画が好きじゃなくてはできない商売だ」と。その通り。直接自分の名誉にも金にもならない仕事に、骨身をけずって努力するなどということは、映画が好きでなくてはできないのである。好きな映画を、よい映画を、自分の思うように思い切り売り切って、その作品が大当たりした時、その喜びは宣伝マンでなければわからない喜びだ。封切り初日の館の前に、長ダのように並んだお客さんの行列を見た時、宣伝部員のこれまでの労がはじめてむくいられるのである。しかし彼らには、また次週に封切られるあたらしい作品が待っている。(引用おしまい)
往時の東宝宣伝部なら、「モルデカイ」の売り文句に「ちょびヒゲ」は付けませんね。舌先三寸の商売(ホメ言葉)には、国語の知識とプライド、集客の努力の跡を見せてもらいたいものです。