「女子アナ」とは何でしょう? 美人がバラエティ番組で芸人さんたちとわちゃわちゃ騒いで、テレビ局の収益に貢献する、月給制のタレントでしょうか。
女子アナとアナウンサーは別物。アナウンサーは、正しい国語を正しい発音で、かつ、何を伝えるかを自分で考えながら情報をお客様に提供するのがその業務ではないのか。原稿を妙な文節で切って話したり、そもそも何をしゃべっているのか、こちらが聴き取れない人たちが主流を占める現状に、現場の危機感はないのでしょうか?
そもそも「女子アナ」とは、未熟なアナウンサーに対する蔑称ではないですか? 女子アナの呼称は恥ずかしいものである点、自覚するところからスタートしないと、話し言葉の崩壊は止まらないと危ぐしています。もちろんこの問題には性差なく、男性にも当てはまります。
正しい国語を墨守するNHKには「アナウンサー」しかいない? トーク番組に出演した美輪明宏さんがきちんとした鼻濁音で話しているのに、ホスト・ホステスの局員がそれ、全然できていないじゃないの。最近のアナは話術よりも、俳優宝田明さんが選挙の話をしたら上の意向を読んでさえぎったなんて話題ばっかり。
余談ですがついでに言わせてもらうと、先日の「自論・公論 麻生太郎新春放談スペシャル」は何だったの? 電波は、籾井会長と福岡県のゆかいな仲間たちの私物なの?
アナウンサーという職人が日本から消えつつあり、女子アナなるミュータントが増殖している今こそ、国はアナウンスを重要無形文化財に指定して、加賀美幸子さんを人間国宝とすべきです。
加賀美幸子さん。NHKのアナウンサーとして数々の放送にかかわってきました。公共放送には珍しく色物の衣装を着た(母親の手づくりだったらしい)、若いころのテレビでの姿もステキでしたが、想像力がふくらむ、声のみのラジオ放送には特に引き込まれます。
なんでこんなに上手いのか。アナウンサーならずとも仕事や、私生活での家族や友人との交流で、こういう説得力ある話し方をしてみたいものです。
加賀美さんが、その秘訣を語った新聞記事がヒットした時、おじさんは図書館のデスクで小躍りしてしまいましたよ。60歳手前の頃のインタビューになりますか、1998年6月12日付の朝日新聞「時の贈り物」から引用します。
(前略)若い時(1963年入局)は、担当する番組で、どういう言葉や声で話せば、効果があるだろうかとか意気込んだりもしたし、目新しさを狙って、ということもありました。でも、そういうのって自然ではないから、拒否されてしまうんですよね。自分だけが空回りしていました。
■それが変わったのは、いつごろのことなのですか。
30代前半のころです。子どもを産んでから、職場復帰して担当した「テレビ聾学校」という福祉番組でした。障害のある2人の女性に、前後して話をきく機会がありました。お2人とも、「私は、たまたま耳が聞こえないという少数派」とか「障害の制約の中に、私は、たまたまいるだけ」と話された。
障害がありながら、障害とも思わずに、あるがままでいるということの強さとゆとりを教えられました。ことに「たまたま」という言葉に強烈なメッセージを受けました。そして、いままでの自分って、肩に力が入っていたんだなあと感じました。今の時代に生まれたのも、アナウンサーになったのも、そして、前の担当者が産休で代わりに福祉番組担当になったのも「たまたま」なんですよね。
それと「ふつうに」ということは、30年もやっている朗読番組の古典の世界でも同じ。名をとどめている人たちだって「ふつう」でした。
■古典って、「枕草子」などですか。言葉も難しいじゃないですか。
難しく読むからですよ。子持ちの清少納言が愚痴をこぼしたり、ねたんだりを書いたりしている。人間の感情って変わっていないのですね。人間はいつの世も同じなんだなあ、と思うとすごく気が楽になりましたね。
■安定感のある、母親のような存在に至るまで、それなりの時間が必要だったのですね。
自然に、息をしながら、話をする。無駄な力はいらない。「自然に、ふつうに」を心がけ、ダメなら反省し、良ければ出していけばいい。バランスを考えて。いま、私が自慢できることは年齢です。長い間生きてきて、人に出会い、ものに出あえた幸せな時間の長さをありがたいと思う。(引用おしまい)
社会生活を送っていると、周囲から自分がいかに見られるか、自分を良く見せたいとの心理が働いてしまいます。我が境遇を「たまたま」と思い、「ふつうに」振る舞うことの難しさよ。
お話しすることが仕事ではないおじさんですが、加賀美さんに憧れを持って生きられるものか、逡巡しながらも馬齢を重ねていくんだと思います。
今こそ、加賀美幸子を人間国宝に!