駄作朝ドラ「マッサン」が、ニッカならぬ劣化に拍車をかけています。
労働意欲のないヤンキーニートが主人公。朝酒タカッて、喧嘩を売って、職探しの時間に将棋指して、親に家賃を無心する。この平成不況下、現実に内職せねば生きていけない人も大勢いるだろうに、そんな仕事をも馬鹿にして否定する。アルバイト先では営業妨害。
仮にピカレスク・テレビ小説だとしてもタチが悪い。金城湯池の駄作と言われた「ごちそうさん」越えも夢ではない、毒電波が毎朝飛んでくる感じ。
モデルの竹鶴リタが夫を「マッサン」と呼んでいたことを思えば、作品をその名で表記したくないレベルまで堕ちてしまいました。「駄ッサン」とか「土下座とハグ」とか、他にいいタイトルないですか?
制作意図が不明です。視聴者の大方は、ニッカウ㐄スキー創業者夫妻の人生がベースだと知った上で作品を見ています。竹鶴政孝をおとしめて、ニッカブランドの不買運動でも始めようとしてるのかしら。表現の自由は大事だけど、ニッカの名誉の方は?
功成り名を為した人物の一生は、新聞の訃報記事に集約されます。竹鶴政孝のそれを朝日・読売両紙で読み比べてみると、朝日は鼻を縫うけがをして嗅覚が鋭くなったなどのエピソードを加えて詳細に書いていますが、竹鶴が何をした人なのかだけを知るには読売新聞の簡潔な文章がわかりやすい。
1979年8月30日付の読売新聞「国産ウイスキーの父 竹鶴ニッカ会長死去」から引用します。年号は昭和です。日本のウイスキーの“生みの親”、ニッカウ㐄スキー会長の竹鶴政孝氏が、29日午前5時30分、肺炎のため、東京都文京区本郷3の1の順天堂大付属病院で死去した。85歳。広島県竹原市出身。葬儀は9月10日午後1時から、港区南青山の青山葬儀所で社葬(葬儀委員長・橋本敬之ニッカウ㐄スキー社長)としてとり行われる。自宅は、北海道余市郡余市町山田町463。喪主は長男、威(たけし)氏。
大阪高等工業学校(現大阪大学)醸造科卒業後、大正7年、単身スコットランドに渡り、日本人として初めてウイスキーの醸造技術を体得して帰国。当時、ウイスキーの製造計画を進めていた寿屋(現サントリー)の鳥井信治郎前社長(故人)に迎えられ、京都市郊外の山崎に、わが国最初のウイスキー工場を建設して、昭和4年、国産本格ウイスキー第一号を世に出した。その後、昭和9年、ウイスキーづくりに格好の自然条件を備えた地として北海道・余市町に大日本果汁(現ニッカウ㐄スキー)を設立、同町でウイスキー原酒の製造を始めた。45年、社長から会長に退き、日本洋酒酒造組合顧問。
「酒は食物と一緒に発展していくものだ」というのが持論で、生涯を日本のウイスキーの品質向上にささげた。工場のある同町に、昭和18年、スキーの40メートル級ジャンプ台(竹鶴シャンツェ)を寄贈し、金メダリスト、笠谷幸生選手らが、このジャンプ台で育っている。40年、同町名誉町民、44年、勲三等瑞宝章、45年に北海道開発功労賞を受けている。(引用おしまい)
これが竹鶴の生涯。日本人として初めてスコッチウイスキーの造り方を学び、サントリーで初めて世に出し、ニッカを設立してウイスキーを製造、北海道の発展にも貢献した人。虚実を織り交ぜ、この話をどう描くかが脚本家の仕事です。
今の書き手だと、次の会社を辞める顛末も不安です。竹鶴は独立後、原酒ができるまでリンゴジュースやアップルワインの生産で糊口をしのぐのですが、この主人公なら「わしゃ林檎汁なぞ売りとうないんじゃ」ぐらいは言いそう。いや、きっとそう言うな。