1999年11月7日付の朝日新聞「猿岩石、旅から3年のいま、どんな思いでお笑いしてるの」から、引き続き引用します。元相方はリタイアしているので「Aさん」とします。
広島県熊野町で、小学校からずっと同級生だった。ボケ役の有吉さんは、子どものころは極端に内気で、ほとんどAさんとしか話さなかった。高校のころは毎日、一人で部屋にこもり、お笑いのビデオを何時間も見続けた。親とは6年間、口をきかなかった。
(中略)「芸人になって女にもてたい」という一心で、20歳の時に2人で上京した。東京ドームの周囲を回りながら、警備員の目をごまかして野宿を続けた。アルバイトしたステーキ屋で、肉を何十枚も盗んで食った。
当時のコントは、口からナマコを出して「エイリアン」と言ったり、十字架に張り付けになったりするものだった。猿岩石というコンビ名は、2人が小中学校時代に好きだった女の子のあだ名「猿女房」と「ほくろ岩石」を合わせて、名付けた。上京して2年後、「名前が面白い!」と、「進め!電波少年」のオーディションに合格。生放送でいきなりヒッチハイクの企画を聞かされ、そのまま旅に出た。帰国して初めて自分たちのビデオを見て、2人は思った。
「何だか、違う」
気温40度で8時間立ち続けた。空腹で吐き気がした。体が臭くてかゆくて、足の悪臭は帰国して1カ月続いた。あの時の泣きたい気持ちがテレビにはまるで映っていない。
だが、2人は知らない人がいない存在になっていた。「何だか、テレビゲームの主人公になったみたいで。視聴者は、毎週、ジャンプとかマガジンとかの少年マンガを買う感覚で、僕らのことを見ていた」と、有吉さんは振り返る。
「猿岩石日記」は3冊で計240万部を超えるベストセラーになり、歌もヒットした。毎晩、帰宅すると、着替えてまたすぐ出かける生活が続いた。テレビが2人に求めたのは、頑張り屋で、いつも優しくて、ギャグがつまらないお笑い芸人というイメージだった。視聴者もまた、それを期待した。(引用おしまい)
プロデューサーが「ちんぴら」と呼んだのは的を射ていました。野宿に肉の窃盗。こりゃチンピラだわ。でもまあ、若さもあったんでしょうが、奴隷的待遇の中、過酷なロケをこなした猿岩石のプロ意識は評価に値します。
流す側は、ブラウン管内(当時)の英雄として旅を完結させたいんだから、8時間立ってたとか、足が臭いなんてパートは編集で切っちゃいますよね。
かくして、スターの座を射止めた猿岩石ですが、お笑い芸人の地獄は、その後に口を開けます。この項、さらに続きます。