猿岩石なるコンビで、ヒッチハイクから帰ってきて、女の子たちがきゃあきゃあわめいていたころを覚えています。正直に言って、この2人が嫌いでした。
当時の感想をまとめるに、「お笑いだ、芸人だと称するなら人を笑わせろ。本や歌が売れているそうだが、客(テレビなら視聴者)に笑いを提供できずして、芸人を名乗るな」ということ。ちっとも面白いと思えませんでしたからね。
おじさんの不明を恥じます。猿岩石の前には面白くなることを禁じる、巨大な障害が立ちふさがっていたのでした。障害の名を、テレビジョンといいます。
絶頂だった猿岩石の人気が下降の途にあった1999年11月7日付の朝日新聞「猿岩石、旅から3年のいま、どんな思いでお笑いしてるの」から引用します。有吉さんの相方はすでに芸能界を退いているので、「Aさん」とします。
10月中旬、東京都新宿区にある太田プロダクションのけいこ場で、お笑いライブのリハーサルが続いていた。「言葉を遊んでいるだけで、全体の笑いがないんだよ。口で説明しちゃだめだ」猿岩石のコントは、放送作家らに10分以上、ねちねちと酷評された。無名の若手芸人たちが見守る中、有吉弘行さん(25)は唇の皮をむきながら、じっと床を見つめた。帰り際、Aさん(25)がつぶやいた。「いつもこんな観じです。お笑いは、そう簡単なもんじゃない」有吉さんとAさんのコンビ猿岩石が、日本テレビの番組「進め!電波少年」で、香港からロンドンまで約3万5千キロのヒッチハイク旅行をして、3年がたった。資金は10万円だけの貧乏ヒッチハイクという設定だったが、撮影のためのディレクターは常に同行していた。有吉さんは「僕らは奴隷。ディレクターは神様だった」と言う。仕掛けたのは、日本テレビの名物プロデューサー土屋敏男さん(43)だ。猿岩石にとっては、「神さまのさらに上の人」にあたる。「人は追い込まれた時、思わぬ顔を見せる。それはテレビの最も得意な分野なんです。別に主役が猿岩石である必要性はなかった」。土屋さんは笑って解説する。(引用おしまい)
猿岩石は番組の「道具」だったわけです。まっさらの新人(素人)を、テレビの文法に当てはめて、お笑いのコンセプトを進行する。怖いですね。芸能界入りをもくろむ人は後を絶たないと思いますが、あなたはそれでもTVスターになりたいですか? この項、続きます。