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2014/10/22

朝鮮半島化する日本

全野党7党が、危険ドラッグとみなされれば、成分を特定せずとも取り締まりができるようにする薬事法改正案を衆議院に提出しました。
「成分や化学式が特定できずとも、毒性を持つ蓋然性があれば規制する」という内容です。ある意味、危険ドラッグより危険な法案だと思います。
「蓋然性」とは、簡単に言えば「高い可能性」です。通常、法律は確実だと判断された事象に適用されます。「人を殺した可能性がある」と言われて死刑にされたらたまりません。指定薬物は、法で定める必然の罰をかなえるために指定されるのです。脱法ドラッグならぬ脱法法案ですよ。
おじさんはもちろん、危険ドラッグには反対です。でも、法律の縛りに関係なく、行政がだれでも逮捕できるなんて法は、民主主義国家ではありえない。ああ、朝鮮民主主義人民共和国というとこにありましたかね。
本来なら人員や予算、体制を整え、指定するまでのスピードを上げるべく審議するのが国会の仕事。危険だからと人権侵害につながりかねない、B層(注・知識や思考習慣に乏しく、言われるままのイメージに流されやすい人たち)目当ての得点稼ぎを野党が前のめりになってやらかしてどうする?
B層扱いされる我々も、危険ドラッグへの認識と意識共有を高め、広めねばなりませんね。社会が過剰反応する、個人がやるべきことをお上に丸投げするようになると、憲法で保障されている権利を侵害する事例がままあります。
1961年1月24日付読売新聞夕刊「刃物追放でも迫力出す」から引用します。
映画の中で演じられる暴力場面が、青少年の暴力事件に実際の動機となって影響しているかどうかについて、いろいろの意見が出されているが、とにかく“刃物を持たない運動”の盛り上がりは、各社の映画製作にもきわめて大きな変化をおよぼしている。何種類かのちがった殺しの手口を見せ場にするはずだった松竹の「悪の華」(井上和男監督)は、すでに撮影ずみのフィルムの多くをカットしたし、東映“警視庁物語”の「不在証明」(島津昇一監督)や「十五歳の女」(同)では横断幕やポスターの標語をなんべんも画面に出した。
このほど撮影を終わった東宝の「情無用の罠」(福田純監督)もシナリオをいそいで改めた例のひとつ。殺人のぬれぎぬを着せられたトラック運転手の佐藤允(まこと)が、かげであやつっていたボスの平田昭彦とその手先の殺し屋田中邦衛を相手に、深夜油まみれになって格闘するシーンがある。はじめは佐藤がピストルで二人を撃ってしまうはずだったが、まず武器がスパナに変えられた。そして佐藤が殺し屋のピストルを拾って銃口をボスに向けると、そこで刑事の中谷一郎がとび出してきて佐藤をだきとめ「あとは警察にまかせろ」というぐあいになった。そして「迫力の点ではかわらない効果をあげた」というのが福田監督の弁。(引用おしまい)
青少年犯罪の原因を映画のせいにした無知な運動者たちにより制作側が表現の自由を自粛、結果としてそれが侵害された例です。50年余を経て読むと、なんてくだらない話なんだと思いますよね。
でも、今も同じことが繰り返されようとしています。自民党が持ち出した「リベンジポルノ法案」もそう。表現の自由を損なうおそれがあります。
公表物が性的行為であるかどうか、着衣の一部がなければ違法など(水着はどうする?)、判断が難しい、またはどうにでもそんたくできる現案は、非常に危うい。
撮った撮られた、流した流された。こんな名誉毀損は本来、親告罪であるべきです。民主主義国家ではありえない。
ああ、大韓民国というとこがありましたね。産経新聞のゴシップ記事ごときにあろうことか、検察が記者を名誉毀損罪で起訴した国です。
アメリカを範としてきた日本の戦後民主主義は、いまや朝鮮半島から多くを学ぶべく、舵を切りつつあります。

いろんな人がいるから追記:本記では、お隣の法体制の不備、反民主主義的な政治手法に反対するものでありますが、両国国民への民族的偏見などを意図するものではありません。