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2014/09/09

日本人がウィンブルドンを制する日

錦織圭選手は素晴らしかったですね。おじさんがテニスをかじっていた昔は、世界上位に通用する日本人プレイヤーがほとんどいなくて、みんなで打面の大きいデカラケというラケット買って、猫も杓子も、分不相応な価格の「FILA」のポロシャツを着て、トップスピン、トップスピンと、トップ選手だったビヨン・ボルグごっこに明け暮れたものでした。あゝ、過ぎ去りしバブルの日々よ。今となってはちょっと恥ずかしい思い出です。
日本人の全米大会4強入りは、熊谷一弥以来96年ぶりとあって、おじさんの周りのブランド大好きジャパニーズは、次こそテニス発祥の地、イギリスはウィンブルドンでのビクトリーだ、などと一部で騒いでいますが、ちょっと待て、待て。
天然芝のセンターコートで、日本人が凱歌を挙げるには、芝コートのインフラ整備がなきゃ無理でしょ。国内にいくつあるのよ、芝コート?
今日は、当の熊谷一弥がおよそ100年前に日本テニス界のレベルアップのために語った提言を紹介します。1916年10月8日の東京朝日新聞「世界的の庭球選手 熊谷三神両氏帰る」から引用します。仮名遣いや句読点、改行は、おじさんが読みやすいように改めています。
(前略)我々に第一の欠点は草地の庭(ローンコート)に慣れぬ事である。練習はいつも土の庭(クレーコート)に限られている。ところが、加州(注・カリフォルニア州)以外、米国における庭球の本舞台はことごとくローンコートになっていて、またそれが本来なのである。
眼と足が疲れぬ上に、青い草、白い球で試合の上に非常に便宜がある。我々がニューヨークステート以来、このコートに慣れぬために受けた損害は少なくない。
第二はサーブの弱い事で、欧米人は身体が大きいだけ力も強く、日本人同士では想像されぬような強いサーブを出す。
第三はネットプレーが日本人よりは彼らの方が一般に巧みな事であろう。しかし、コートの差異以外、サーブやネットプレーはある程度まで練習で行ける。いわんやその他の技術、動作の敏捷等の諸点では、日本人の方がはるかに立ち勝った素質を持っているから、庭球において世界に頭角を抜く事は訳はない。(引用おしまい)
 熊谷はコートの差異以外、大した問題ではないと語っていますね。言い換えれば、コートの違いが最大の問題だから早く改善しろ、と言っているとも読めます。
熊谷の悲願は、化学繊維の発達による人工芝の登場によって、ますます遠のきます。天然芝なんて手のかかる代物、効率第一の先進国では無駄でしかないっすよね。高額な維持費まかなうために使用料上げたら客来ないっすよ。運営企業逃げるっすよ。テニスなんてマイナースポーツよりよほど競技人口の多い野球だって人工芝全盛っすよ。
以上、経済とか産業と呼ばれる次元でのお話でした。次は文化の観点から考えてみます。人間はなぜ、ラスコーの壁画やメソポタミア美術、モナリザなど大昔の遺物に膨大な維持費をかけるのか?
もちろん、それらが人類の大事な文化だからです。スポーツだって文化です。テニスだって文明の産物です。英国オリジナルのテニスは芝生の上で執り行う。錦織選手と、彼に続くプレイヤーが、極東の島国からウィンブルドンを制するためには、文化の維持発展に必要な無駄への自覚と投資が求められるのです。ねえ、熊谷さん。