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2014/09/10

朝日新聞にリフォームの匠はいるのか?

「新聞ビフォーアフター」の時間です。1879年に建てられた朝日新聞、築140年近い家屋は相当傷みが進んでいます。まあ、何ということでしょう! 障子は破れ放題、天井からは雨漏り、根太も緩んでいるではありませんか。リクルート事件のスクープなど数々の美術品は汚れた床に落ちて、ヒビが入っています。リフォームの匠は、この家を立て直すことができるのでしょうか?

朝日新聞が変です。従軍慰安婦の記事取り消しのことではありません。過ちては改むるをはばかるなかれ。済州島の強制連行報道は誤りだったわけですが、慰安婦問題自体の根底が揺らいだわけではない。
おかしいのは、それについての週刊誌広告と、ジャーナリスト池上彰さんのコラム両方の掲載拒否ですよ。異論は排するのであれば、長崎市の被爆者に対する安倍首相の「見解の相違」発言と何ら変わりがない。安倍さんと朝日新聞が同じメンタリティだとしたら、日本は本当におそろしい国なのだと震えます。
今日は、元朝日記者で敗戦と同時に組織と社員の戦争責任を問うて退社した、現在99歳の現役ジャーナリストむのたけじさんの言葉から、新聞の存在意義について考えてみます。1982年10月18日の朝日新聞「新聞は読者の心取り戻せ」から引用します。
(前略)新聞は政党でも慈善団体でもありません。事実を報道し、収入を得て、経費を支払っていかねばならない。生きて、機能しなければならないのです。当然、限界や制約がある。それは読者の多くが抱え、悩んでいる制約でもあるわけです。
記者たちは、それを十分認識していますか。観念的な建前、木鐸意識だけで、月光仮面型の報道をしていませんか。きれいで、だれも反論できない筋論が書いてあるけれども、そうだ、と多くの読者をうなずかせない。まして、本当に重要な段階になると、がらりと「現実論」に論調を変えるのでは、読者が新聞に距離を置くのは、当然です。
(中略)江戸時代にだって瓦版がありましたね。社会主義国家にも新聞は存在します。大衆が文字を知った社会では、時代、体制を超えて新聞は高い価値を保ち続ける、と考えています。ジャーナリズムというものの本質が、そこにあると思うんです。
日々のできごとを集め、記録し、広め、積み重ねて行く。これは社会の日記です。正確に、忠実に積み重ねられた事実は、いつか、新しいものを生み出す刺激、起爆剤になり得る、とわたしは信じています。
しかし新聞一般が存在価値を持ち続けるとしても、一つひとつの新聞が生き続けるために頼れるのは、読者だけです。そして、真に読者の側に立っているかどうかの検証の基準は、結局、「人間の尊厳を高める報道をしているかどうか、人間の進歩に寄与する報道をしているかどうか」だけだと思いますよ。(引用おしまい)
 朝日新聞社は、むのさんの主張をどう受け止めるのでしょう? 東日本大震災直後、朝日新聞が脱原発の大々的な社説を展開した時、おじさんは希望を抱きました。今後の日本のエネルギー政策モデルを、朝日新聞がどしどし提供してくれると期待したからです。
ところが、川内原発再稼働が決まる今になっても、朝日からは何も将来への対案が出てこない。木鐸叩きながら現れた月光仮面が、一発もピストル撃たずに現実論を説き出す違和感を持ちます。脱原発宣言は空論だったのですね。「避難計画が自治体任せ」などという議論はしょせん枝葉だ。
むのさんの「日々のできごとを集め、記録し、広め、積み重ねて行く。これは社会の日記です。正確に、忠実に積み重ねられた事実は、いつか、新しいものを生み出す刺激、起爆剤になり得る」との言は、まさにおじさんが図書館で新聞の縮刷版を漁り、ブログを書く最大の理由であります。むのさん、おじさんは間違っていませんよね。
人間の尊厳を高める報道をしているかどうか、人間の進歩に寄与する報道ができるのか。日本のメディア全体がそこに立ち返ってくれることを願います。まずは朝日新聞が多少はマシな会社に立ち戻ってほしいものです。