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2014/09/12

朝ドラ「マッサン」への期待

劇のセリフで観客が何に一番イラつくかと問われれば、間違いなくオウム返しです。例えば、以下のようなモノ。

例1
花子:明日も生きているとは限らない。今日が最後の日になるかもしれないって。
英治: そうだな。今日が人生最後の日だとしたら……。

花子:明日死んでしまうかもしれないのに。
例2
ふじ:美里ちゃんが、いなくなっただよ。
花子:てっ! 
美里が⁉︎
英治:美里がいなくなったって?

朝一番にやられるとダメージ大きいですよ。その日一日、仕事したくなくなる。「花子とアン」、最終月までコレかよ。「オウムとアホウドリ」だよ。9月になってからの朝ドラの楽しみは、「花子とアン」が間もなく終わる、そして新番組「マッサン」が始まることです。
次回作の主演はアメリカン。外国人ヒロインでは当たらない、公共放送には向かない等の国粋主義的な思い込みが必ずしも正鵠を射るとは限りません。日本中のオトコどもがアグネス・ラム(Agnes Lum)なる米国人に熱狂した時代もあったのです。今度のお方はキュートで、何よりお芝居が達者らしいではないですか。
日本人の多くが欧米人、特に白人に対して勝手に築き上げる人種の垣根が問題です。制作側の責任ではなく、見る側にひっ付いた積年の精神の染みを落とす力が作品にあるか。ハードル高いですね。
今日は1960年代から我が国で活躍している、混じりっけなしの外国人タレント、イーデス・ハンソン(Edith Hanson)さんのインタビューから、日本人のガイジン観を探ります。
1975年9月1日の毎日新聞「わが人生のとき」から引用します。
よく外人ということを意識しませんかと聞かれるけど、いちいち外人という意識をもっていたらシンドイだけだし、だいいちアホラシイやないの。そう思わない? 九つまでインドヒマラヤあたりに住んでいたんだけど、通っていた学校にはいろんな国の子供がおって、ミニ国連みたいやった。そんな時に自分はいちいち外人だとは思わないでしょ。
(中略)私にとっては、場所としての故郷はないね。インドも、学生時代を過ごしたアメリカ、この日本も、日本人のいうようなふるさとではないね。日本人は何かというとあなたの故郷はと聞くけど、私の両親のおるアメリカだって、ただ親に会いに行くだけのところよ。ほんなら私にとってふるさととはね、思い出につながる友達がたくさんおるところね。そういう意味では日本というのはとてもいいところね。
(中略)人間にとって心が大事だとよくいうね。年いった人は特に若い人を見て心がないねというね。アメリカでも同じようなことをいってるよ。皆は人にいわれなくてもそれぞれ心はもっているものよ。年をとっている人だけが心があるみたいないい方を聞くと、すごくシャクにさわるね。日本は敗戦で非常に変わったから、日本人の心も変わるわよね。要するに心があるとかないとかというのは、価値判断とか趣味が変わったことをいっているのじゃないの。若いものに心、心というとシラケちゃうわよ。(引用おしまい)
ガイジン嫌い(または敗戦コンプレックス)の人は、シンドイだけでアホラシイ先入観を捨てて、公共放送の一大決心を見守るつもりで視聴するのはいかがでしょう。「今どきの朝ドラは……」と、世代のせいにするのも無しね。
またも期待を裏切るクズ脚本やゴミ演出のポンコツドラマだったら、ガイジンを責めず、スタッフを嗤えばいいのです。
異人種間結婚による互いの国でのマイノリティ差別を乗り越え、夢をかなえる夫婦の物語になると期待しています。
再び三たびポンコツが出てきたら……。作る方も迷うことなく早めにイーデス・ハンソンさんに監修願うことをお勧めします。