その竹鶴の素地をつくった、両親や実家といった環境まで描き切れるのかどうかは大きいですね。前半のヤマでしょう。
本場ウイスキー醸造の権威と渡り合った竹鶴の冒険譚を続けます。引き続き、1959年7月26日の朝日新聞「とっておきの話 竹鶴政孝」から引用します。
このような大先輩とのおくせぬ“技術交換”も、当時では破天荒だった国際結婚にしても、やはり、はたち台(ママ)の若さがこれを実現させ、そしていまでもわたしの生活の大きな支えとなっているものだが、同じ若さでやってのけた、渡航途中のちょっとした思い出もある。若き竹鶴は度胸の人だった。夢をかなえるためには、米大統領に直接電報を打つような男だったのです。
出発したのは大正7年で第一次世界大戦中だったため、アメリカ回りで行かねばならなかったが、途中ニューヨークで1カ月も足止めを食ってしまった。米軍が続々欧州へ出兵している折なので、船がないのかとも思ったが、それにしてもずい分待たせるものだとやきもきしていたところ、仮泊していた学生ホテルのアメリカ青年が「ウィルソン大統領に直訴してみろ」と勧めてくれた。
当時のわたしにしてみれば天皇陛下に手紙を出すようなもので、はじめは二の足を踏んでいたが、ままよと勇気をふるって、大統領あてに電報を打ったのだ。ところが驚いたことには2日後に政府のパスポート係から「直ちに出頭されたい」という手紙が届いた。飛んで行くと「まことに申訳ない(ママ)が手違いで書類が遅れた」と、すぐ翌日の船を手配してくれた。
デモクラシーの国を見直した初めての経験だったが、割込ませて(ママ)くれた船が兵隊の輸送船で、ドイツの潜航艇に脅かされながら大西洋を渡った。このときドカンとやられていたら、いまのわたしも、ニッカウヰスキーも存在してないのだが……。(引用おしまい)
人物造形は脚本家の自由ですから、いろんなマッサン像があってもいいのですが、モデルの芯の強さだけは墨守していただきたいものです。くれぐれも、「時代の波」に流されまくって、結局156回まるまる何がしたかったのか、何をしたのか謎のまま消えた「村岡花子」のようにならないことを願います。