ついに最終回〜! 「花子とアン」がやっと終わりました。「赤毛のアン」の細かいセリフまで知り尽くしている愛読者でなければ理解できぬ(そんなマニアでも理論立てが難しい)独りよがりなスピーチをかましたあげく、パーティの来賓をほったらかしにして、英単語を調べに勝手に帰宅する村岡花子の振る舞い。まさにこの駄作を象徴するエンディングでした。期待を裏切らぬ断末魔に思わず拍手。
DVD売る時には、村岡訳の「アン」を付録に付けて「最初にお読み下さい」と、注意書きをパッケージに載せないと、とんだ欠陥商品になりますよ。
次作「マッサン」は、ニッカウ㐄スキーの創始者竹鶴政孝夫妻がモデルですが、実在したか否かにかかわらず作品に信用が置けなくなっているのが、近ごろの公共放送ドラマ。作品のキャラがおかしくならぬ保証がない。視聴者として、本物の竹鶴政孝を知っておく必要があります。備忘録も兼ねて、1959年7月26日の朝日新聞「とっておきの話 竹鶴政孝」を引用しておきます。
もう40年も前の話だ。スコットランド、グラスゴーの町で、あるパーティー帰りのわたしは連れの英国女性にいきなりプロポーズした。相手はびっくりしてわたしの顔を見返していたが、1週間後には内諾の返事をよこした。彼女は東洋びいきの医者だった父親から、またわたしも、はじめは驚き迷いもした郷里の両親から、それぞれ許しを得て、グラスゴーの教会でささやかな結婚式をあげた。この妻リタとの家庭は、いまも続いている。大正時代に単身スコットランドに渡ったり、現地の女性にプロポーズしたりと、かなり肝の座った人だったようです。職人気質でありながら、権威から「秘伝」を聞き出す知恵もある。一筋縄ではいかぬ性格のようです。
ところで、このグラスゴーを舞台にした新生活の出発は、ウイスキーに打込む(ママ)わたしの生涯の、重要な出発点ともなった。もともと妻との結びつきは、同じグラスゴー大学で妻は経済学科に、わたしはスコッチ・ウイスキーの醸造法を習得するため応用化学科に学んでいたところから生まれたもので、一部でうわさされているように、秘法をつかむために醸造界に関係のある女性と結婚したという説は当っていない(ママ)。
大阪高等工業(現在の阪大工学部)の醸造科を出て、当時イミテーションのウイスキーしかつくっていなかった摂津酒造に入社したわたしは、社長の阿部嘉兵衛氏(故人)から「本場のウイスキーの醸造法を覚えて来い」との特命を受け、24歳の単身渡航となったわけだ。しかし、グラスゴー大学から実習に行ったホワイト・ホースの工場では、極東から来た青二才には、通りいっぺんのことしか教えてくれなかった。三百年の歴史を持つスコッチ・ウイスキーの本拠であれば、それも当然のことだったのだろう。
そのときわたしは、わたしが生れた(ママ)郷里のつくり酒屋のことを思い浮べた(ママ)。おれの家だって銘酒「春心」をつくった三百年ののれんのある家だ……。それからわたしは、日本酒のうまさを、顔を合わせる人ごとに吹聴した。やがてそれがキャンベルタウンの工場の技師長でもあり、スコットランドの醸造学の泰斗でもあるイネス博士の耳にも入り、思いがけなく博士からの申入れ(ママ)を受けた。日本の酒のつくり方、とくにコウジの使い方を教えてくれ、その代り(ママ)スコッチ・ウイスキーの微妙な味や香りの出し方を教えて上げよう、というのである。この両洋の“技術交換”でやっとわたしは、年代の違った原酒をまぜて味や香りを変える「ブレンディング」の方法を習得したわけだ。
同じ大麦を発酵させたものにも、その大麦の育った風土や気候で、また10年もの、15年もの、18年ものといった貯蔵期間で、それぞれ違った風味があり、さらにこれらをまぜ合せる(ママ)となるといろいろな風味が出てくる。帰国後11年間つくった寿屋のサントリー・ウイスキーも、そのあと北海道に新天地を求めて昭和9年から始めたニッカウヰスキーも、このブレンディングによっている。(引用おしまい)
果たして脚本は、ここを殺さず作品に反映することができるのでしょうか。この項、続きます。