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2014/09/28

100年前の逸ノ城

久しぶりに大相撲が大きな話題になっていますね。もちろん逸ノ城関がその中心です。新入幕力士が優勝すれば、1914年夏場所の両国勇治郎以来、100年ぶりの記録だそうです。今日はその両国が優勝した時の千秋楽を伝える新聞記事を拾ってみました。
最初に断っておくと、当時の本場所は現在とシステムが違います。個人の優勝ではなく、東西に分かれて戦い、双方の勝ち星が多い陣が優勝とされました。同じ陣の力士同士の対戦はなく、10日目が千秋楽です。両国は9勝1休で幕内最多勝力士になりました。
同年6月9日の朝日新聞「偉なる哉両国」から引用します。仮名遣いや句読点、改行は、おじさんが現代風に改めています。
偉なる哉(かな)両国、桂冠は遂に彼が手に帰した。この数年、天下無敵の名をほしいままにした太刀山が孔雀のような誇りの夢を一朝にして破ったのは彼、両国である。
鉄骨円天井の大伽藍を飾る全勝の大写真群はすでに7場所まで太刀山の独占、しかも12号までは必ず他人をして一指を染めるを許さぬとさえ豪語していた彼、太刀山に一矢を報いて後え(注・後方)に瞠若(注・眼をみはること)たらしめた怪物両国は、今年取ってようやく23歳の青年である。彼は秋田県仙北の産、水呑百姓のせがれである。家は貧しい上に、父は産みの母の入夫(注・入り婿)である。家にいても面白い事はなし。いっそ相撲にでもなろうというので、今の常陸山の弟子男島が先代入間川の弟子であった時分に、入間川を頼って上京した。間もなく入間川が相撲を廃業したので、郷里の秋田へ帰されたが、碇潟と男島が彼に見込みを付け、わざわざ迎えに行って無理にまた連れてきた。
それからは常陸山部屋に預けられて、碇潟と男島が専心に仕込んだ。その時の彼の名は松ケ崎。時は今から7年前であった。
身体がそう大きい方ではないが、よく勉強するのでメキメキ上達した。今の入間川が見込んで、前名両国を彼に譲ったころは、部屋の有望力士として早くも将来に多大の望みを属せられていた。今年春場所の成績抜群のため、この夏場所に初めて入幕、そして今回幕内全勝の盛名を天下に馳するに至った。
彼は相撲を取り始めてからまだ4回きり他に負けた事がない。取り口は鳳式に朝潮式を加味していると言われている。敏捷無比、腕も腰も強く、相手次第で取り口に千変万化の機知を見せる。身長5尺9寸、体重25貫。顔つきはまだ初々しい。そして嫌みのない兄さんである。(引用おしまい)
貧農の家に生まれ、秋田から東京へ。師匠の都合で廃業させられたり、部屋にまた戻されたりと、両国も苦労が絶えません。個人の優勝制度はなくても、大写真が国技館に飾られるのは今と同じだったんですね。
記事から読み取れるのは、当時は横綱太刀山の一人勝ちで、ファンもメディアも、新星登場を待ち焦がれていたことです。太刀山の扱いがよくありません。北の湖理事長の全盛期のごとき悪役的な書かれようです。
現在の大相撲も白鵬関の賜杯ほぼ独占が続いています。スターを求める心理は、今も100年前も似たようなものですね。
その後の両国は、あまりパッとしない成績に終わったようですが、逸ノ城関にはぜひ大成してもらいたいです。わがままな桟敷席は、スターが何人いても満足しないのですから。