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2014/09/29

TVショーが芸人を殺す

超人気テレビ番組「笑い飯のおもしろテレビ」の収録観覧に行ってきました。えっ、そんなの知らない? 冗談言うたらあきません。最近の阪神の試合っぷりよりよっぽどおもろい、サンテレビの看板プログラムでっせ。なに、サンテレビも知らない? 笑い飯、タイガースにエッチな深夜番組好きなら、サンテレビ見んと!

収録は面白かったですよ。ゲストはギャロップ、モンスターエンジンとアキナ。皆達者です。でも、最大の収穫は「肉食系」若手ピン芸人・ガオ〜ちゃんでした。芸は爪をむき出した野獣ポーズを決めてガオーって吠えるだけなんですが、いやもう、その面白くなさ、場の空気の読まなさ加減が普通じゃない。プロの芸人さんたちが絡むと、その見事なまでのつまらなさが彼らにも伝染して、プロがさらし者になり、会場がイヤ〜な感じの笑いに包まれます。
たむらけんじさん以来の逸材かもしれない。いや、たむけんには顕著な照れがない分、ガオ〜ちゃんの方が上か。できうるならば、短期間でもプチブレイクしてからフェイドアウトしてほしいものです。
今日はテレビに持ち上げられた末、テレビと芸能事務所につぶされた芸人さんのお話をします。1980年10月、吉本興業は東京・赤坂に東京事務所を設けます。上方の笑いの輸出窓口です。中心は若手社員の木村政雄・大崎洋の両氏。後の同社の両巨頭です。
焦ったのは吉本のライバル松竹芸能。遅れを取らじと、おっとり刀で東京のテレビに参戦します。1981年2月14日の朝日新聞「大阪漫才界 東京に進出」から引用します。
青芝金太・紋太。コンビを組んで3年。昨年「お笑いスター誕生!!」(制作・日本テレビ)で9週合格した実力のある若手漫才コンビである。
12日、彼らは活動の本拠である大阪を去り、東京へ向かった。
(中略)彼らは自ら進んで東京へ行ったのではない。実は吉本興業とならぶ規模で大阪のお笑いタレントをかかえる松竹芸能(大阪市南区九郎右衛門町)の「やる気」がひき金となった。
大阪にはいくつかのプロダクションがあるが、吉本興業と松竹芸能が群を抜いて大きい。しかし、現在では吉本が完全に水をあけている。(中略)テレビでよく見る顔はたいてい吉本所属なのだ。
(中略)そこで松竹芸能は何とか巻き返しをはかろうと、昨年末、大幅な体質改善を行った。若手重視、テレビ重視への転換である。テレビ部、園芸部の2部に分け、テレビ部の中に、若手を育成する「開発課」を作った。さらに、将来性のある若手漫才師を月給制の所属タレントにしようと図った。その候補の一組に金太・紋太がいたのである。
松竹芸能の親会社松竹の経営する「新花月」や「角座」を主な仕事場にしているとはいえ、2人の所属は和光プロという小プロダクションだった。移籍を要求された和光プロと金太・紋太は断った。「そろばん以前に若手を育てたいというのが私たちの夢ですよ。子を育てた親のように」と三善捷三社長はいう。
その結果、金太・紋太は「角座」などから締め出され、大阪のテレビ局の出番もなくなった。東京へ行くしかなくなったのだ。
紋太はいう。「大阪がだめなら東京があるさという軽い気持ちで行きます。前から、このまま大阪でやってたら悔いが残るんとちゃうかな、というもやもやした気持ちがあった。それがふっきれた」。一方金太は「この時期に行くのが最適やと思います。いったからには大阪にいたときより進歩したといわれるようになりたい」。(引用おしまい)
ようもまあ、芸人売る前からこんなえげつない話 、新聞に載せまんなあ。芸能ジャーナリズムが、今よりまだ健全だったと解釈すればいいんですかね。松竹芸能は、才能ある漫才コンビが関西で仕事できないように追い詰めて、東京に追いやったという話ですね。
テレビ番組でスターになった2人は、プロダクションのカネ儲けのダシにされて、テレビの最前線に放り出されたのです。
芸人は本来、その芸を見せてナンボ。当人たちが選んだその日のネタを自由にかけられる劇場と、局の都合や思惑が絡んだプログラムの部品としての機能を求められるTVショーとでは勝手が違います。
お笑いの世代交代が進まないなどと嘆いてみせる向きは、無難なトーク、グルメ、旅行、クイズ等々に才能ある芸人を縛りつけている電波業界の体質をまず嘆くべし。
金太さん、紋太さん、最近テレビではお見かけしませんが、息災でいらっしゃればいいのですが。
無難な番組ばかりなら、いずれガオ〜ちゃんにだって、東京からお声がかかるやもしれません。もの珍しければ何でもいい現状なのですから。
おじさんとしては「やめておけ」と言いたい。あっという間に消費されて消されます。吠え芸と決めたからには、少しでも関西でガオを磨いた方が芸の足しになるし、多少は長生きできますよ。