コピー禁止

2014/06/13

明治中後期の勝海舟の存在意義

みんな、勝海舟を知っているかな?時代が江戸から明治に替わる時に、幕府の代表として官軍(今で言う革命軍だね)の西郷隆盛と話し合って、戦争をせずに、幕府の政治の中心だった江戸城の明け渡しを決めた人です。
明治維新後は旧幕臣ということもあって、政治の表舞台から事実上引退していましたが、文章を書いたり、新聞記者に話をしたりして、日本の国が変な方向に行かないよう気をつけていたようです。
今日は、1897年8月10日の東京朝日新聞から、次々に亡くなっていく愛弟子たちの思い出を語る海舟のインタビューを紹介します。この月、明治の元勲と呼ばれた後藤象二郎が死に、陸奥宗光も重病が伝えられました。「勝伯と後藤陸奥両伯」を以下に引用します。句読点とカギカッコ・改行は、おじさんによります。坂本龍馬の名前が出てきますが、「阪本」と書いてあるのでそのままにしてあります。


例の氷川老伯(注・東京の赤坂氷川に住んでいたのでこう呼ばれた)、此頃(このごろ)後藤伯の長逝(注・死亡)と陸奥伯の重病とを聞き、客(かく)に語りて曰く。
「己れ(おれ)が維新前、神戸で海軍兵学校を建てて居った(おった)頃、後藤は塾長をさせて居った阪本龍馬(ママ)からの頼みで暫く(しばらく)入校し、又(また)陸奥は紀州侯(注・今の和歌山地方の殿様)からの頼みと恰度(ちょうど)陸奥の伯父の伊達某も入校して居たる因縁とで入校させたが、二人とも随分乱暴な上に横着者であって、他の乱暴な塾生たちすら彼ら二人には閉口したよ。
併し(しかし)、己れは二人とも其(その)横着な所に見込(ママ)を付けて居ったが、果たして二人とも彼(あ)の通り立派な人間に成ったが、二人ともえらく成ってから己れの所へ面出しもせず、大きな顔をして居るから実はなんだ-恩知らず奴(め)と、腹の立った事もあったが、皆国家の為め(ママ)に一仕事した人間だから、己ゃ蔭(ママ)から常に悦んで(よろこんで)居たが、横着者の一人後藤は既に亡くなり、今一人の陸奥も亦(また)危篤なりと聞く。噫(ああ)、真に残念なり」と語り了(おわ)りて、老顔に涙潜々(さんさん)。(引用おしまい)

勝が幕府の軍艦奉行をしていたころの回想。江戸っ子の伯爵は、なんだかあったかい人ですね。乱暴で怠け者の後藤象二郎と陸奥宗光は、いわゆる武士道精神に反する存在。そこを長所だと見込んで成長させるなんて、なかなかできることではありません。しかも後には敵の立場になったんだよね。勝海舟、当時は勝安芳のふところの深さに、おじさん感動してしまいます。
勝はこの2年後に亡くなりますが、ずっと日本の海外侵略姿勢に苦言を呈しています。もうちょっと長生きしてくれていたら、日露戦争開戦もなかったかもね。
現在の政治に勝海舟を探してみます。いません。戦争ができる国へ突き進む国づくりに注文をつけて、押しとどめてくれる長老はいますか?聴く耳を持つ閣僚はどこにいるの?