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2015/04/28

「花燃ゆ」第17話感想「狂人、サイコの言葉」

「花燃ゆ」に伊藤利助(博文)役で出演中のお笑い芸人劇団ひとりさんが、民放のバラエティ番組で「出番まで5時間も待たされた」と怒ってみせて笑いを取ったそうです。未見ですが、本当ならひどい。
昔から「役者の仕事は待つこと」だと言われています。スタッフは本番前から様々な支度に追われ、撮影が遅れる日もままあります。この発言をきっかけに、自称役者の天狗どもが大量に湧いて出て、ドラマ制作の現場がさらに荒れる元にならぬよう願います。大河ドラマも民放の放送作家によくもここまでナメられたもんだ。ナメられる原因を第17回「松陰、最後の言葉」から探っていかねばなりません、とほほ。今回は長文につき、途中に見出しを入れます。

破れ傘長州悪人ばかり

前原一誠は、すぐにでも萩の乱を起こして消えてくれませんか。丁寧な振る舞いのキャラを押し出そうとしているのでしょうけど、謝り通しもここまで来ると慇懃無礼です。実に不愉快。
久坂玄瑞は相変わらず滑舌が悪いなあ。しゃがみ込むと何をしゃべっているのかさっぱり。こんなシーンをねじ込んで、夫婦間の愛情を表現しようとする無理は反感を買うだけです。「俺はどこにも行かん。この身がどこにあろうと、気持ちはいっつもそばにおる」と言われる妻も迷惑千万。こいつは後に御所を襲撃、長州を朝敵に回す男です。嫁の幸せどころか藩の将来すら頭になかったんだから、このセリフは実に浅い。周布政之助までが「幕府は寅次郎の行状をつかんでいないから死罪を免れる」などと太平楽をぬかし出す有り様。昼間から酔っ払ってんのか? 普通ならこんな藩、廃藩置県を待たずに即お家断絶だよ。
ヒロイン文はといえば、前原一誠に要らんことしいの邪魔キャラですし、小田村伊之助ときたら毛利家の将来シカトで吉田松陰を「あきらめるな」と焚きつける始末。こいつら、やがて結婚するんですよ。英国の連続殺人鬼フレデリックとローズのウエスト夫妻並みの最凶夫婦になります。2人が全力で国を誤らせるんだね。
木製の牢とは思えぬ金属音とともに扉が閉められると、伊之助・松陰間で理解不能な国家論にも人生論にもならぬ言い合いが始まるのですが、大沢たかおさんは疲れているのでしょうか? セリフ回しが変です。たぶん「尽くし、動かざれば、なお尽くす」と言ったんですよね。「なお」の「な」にアクセントを乗せなかったため、「名を尽くす」に聞こえました。国語発音の基本。ただでさえ抽象的な言辞が、さらに意味不明に。台本を一読してどんな気分になるのか想像できますし、キャストには同情しますが、ここはプロの意地を見せていただきたい。

好かれる「庶民派大老」、嫌われる塾長

一方の井伊直弼は、北町奉行から直接話を聴くほどの飾り気のなさが好感度を上げますね。現代に置き換えると、大老は内閣総理大臣。寺社や勘定方の奉行所があり、江戸の町奉行所が南北の管轄に分かれていたことを思えば、北町奉行は捜査本部がある所轄署の署長に毛の生えたぐらいのランクでしょうか。井伊直弼は、警察庁長官や法務大臣をすっ飛ばして下級官僚の声に耳を傾ける庶民派首相。現実の幕府組織ではあり得ないでしょうね。講談か「花燃ゆ」ぐらいでしかお目にかかれないファンタジーです。死刑の判決文も、大老直々に書き直しやってたしね。
その場で「攘夷を旗印に朝廷に取り入り、国を大乱に導こうとする者らを決して許すわけにはいかん」とタンカを切る直弼。幕府の大老が「朝廷」と言っちゃおしまいです。以前にも書きましたが朝廷とは、天子を頂点にいただく「政権」です。公家や攘夷思想にかぶれた革命家気取りの連中が修辞的に使うならともかく、時の政府の最高権力者が口にする単語じゃありません。我が陣営の正当性を否定し、二重政権国家を認めることになりますから。
この奉行も司法取引を持ち出すくだりで、奇妙な接続語「ところで」を使用しています。話題を変える際に言いますね。お白洲ではずっと松陰の罪状についての話題が続いているから、これは間違った国語。正しい日本語が使えない裁判官に当たった吉田松陰は不運でした。これ、無理やりの処刑に対する脚本家のエクスキューズだったのでしょうか?
吉田松陰は最後の出番まで狂っていました。牢名主相手に高杉晋作を弟子ではなく友だと説明したところで、目当ては金だけの名主さんにとって何の意味があろうか。ただ、寅さんの異常性のみ際立ちます。視聴者を納得させられるだけの友人関係を構築しておかなかったツケです。
帰国する高杉を説得する松陰。「生きて何かを為さねばならん」とか口走ります。その後高杉がやったことといえば、外国公使暗殺の密謀、英国公使館焼き打ち、仲間がしでかした禁門の変を丸く収めんとする和平派を追放しての暴力革命推進に、妻子ほったらかしの愛人連れ四国逃亡等々。四境戦争で幕府軍を討ち破ったのは、あくまで戦術家軍人としての功です。政治家ではないから、吉田松陰から学んだのは暴力革命思想のみですか。馬関戦争の和平交渉での役割は、長州閥による後年の創作だとにらんでいます。
さて、クライマックスとなるはずだった松陰と直弼の対峙は、見事にかみ合っていません。「庶民の営みを脅かすなら異国であろうと、幕府であろうと云々」とイキる松陰。脚本ならびに演出は、具体例を作中で述べよ。直弼は「国を混乱に陥れているのはお前たちの方ではないか?」。いやいや井伊殿、それは主に水戸の連中ですって。ここで大獄終わらせずに茨城の跳ねっ返りを断罪しておかないと、まもなくあなた、桜田門外で首級にされちゃいますよ。

井伊直弼を追賞しよう

今日は、その井伊直弼が明治維新後、いかなる扱いを受けてきたのかを検証します。元彦根藩士らは井伊の銅像を首都圏に建立すべく、再三にわたり尽力しました。最初は1883年、東京市内に建てようとする動きがありました。1909年6月29日付の東京朝日新聞「井伊直弼銅像問題(1)」から引用します。仮名遣いと句読点、改行など、おじさんが現代風に直しています。
(前略)時の内務大臣品川弥二郎氏が掃部頭(注・井伊の官名)の安政疑獄当時に故松陰先生の殺されたる旧怨を忘れずして、さかんにこれに対して異議を唱えたるため、ついにこの議は立ち消えとなりたり。
当時、島田三郎氏(注・報道人、著作家で衆院議員)、これを憤り直弼のごとき至誠国家のために尽くせし者が、一朝その政敵のために倒さるるや、死後永く汚名を蒙りて冤枉(注・無実の罪)雪ぐ(すすぐ)に由なきは気の毒千万なるに、せっかく有志者間に企てられたる銅像建設の挙に異議を唱うるなどは余りとしても狭量なりとて1日、氏は故陸奥(宗光)伯を訪い(注・訪問し)語るに、公が開国の功績をもってし、朝廷に対する一時の手続き上の錯誤のごときは、後日の弁疏(べんそ、注・弁解)によりてついに解決を告げたれば、いまさら違勅としてとがむべきにあらず。現に品川子のごとき、明治政府に枢要の地位を占め居る者は、いずれもそのはじめこそ尊攘論にてありたれ、今日はすでに掃部頭と同一の論に帰せることなれば、この際旧態を云々せんは余りにも大人げなし、とのことを縷延(注・詳述)したるに、陸奥伯も深くこれに同意し、伯はさらにこれを山県(有朋)、品川の両氏に伝えたるところ、2氏この意見には何らの異議を唱え差し挟まざりという。
(中略)その後史談会は貴衆両院に向かって掃部頭追賞を請願せんことを決議し、貴院は谷(干城)子、衆院は島田氏、これが紹介者となって、議院に提出せられたるも、長州人と水戸人のために妨害せられて今に至るまでその目的を達することを得ず、という。
それ直弼の功罪如何を論じ、それが追賞の理非理を帰せんとするごときは、おのずから人に依りて見を異にするものあるべしとしばらく措かん。ただ西郷老の銅像をさえ上野に許したる今日、強いて直弼が銅像の建設を妨害せんとして、様々の小策を弄する一派の人々の大人げなき挙動に至りては、いささか次を追うて報ずるところなかるべからず。(引用おしまい)
史談会という組織の井伊銅像建設への努力を、品川弥二郎ら長州や水戸の小人たちが全力で潰しました。死者にムチ打つとは、まさに明治政府の要人たちのこの行いを指します。文末の「次を追うて報ずる」とあるのは、こいつらの大人げなさ追及のキャンペーンを張るということです。翌30日付の同紙「井伊銅像問題(2)」から引用します。
その次は明治32年(1889年)のことなりき。井伊家の旧臣豊原基臣氏を筆頭として(中略)9氏連署して、日比谷公園内に300余坪の土地を借用し、ここに直弼の銅像を建設線と願い出でたるとあり。
日比谷は事変(注・桜田門外の変)の舞台たりし桜田門外より、水戸浪士が直弼の首級を龍の口に運び去りし道筋に当たるをもってなり。かくて件の願書は同年3月11日をもって東京市に差し出され、市はこれを許可したり。さりながら、許可したるは土地借用の件のみにて、銅像建設の許否はさらに東京府に出願せざるべからずとのことなりき。ここにおいて有志は、さらに書を裁して建設の許可時の東京府知事千家尊福男に出願せり。
しかるに、東京府のこれに対する処置、荏苒として(注・だらだら遅延すること)決せず、日を経、月を越ゆれども一向にらち明かず。その間には様々な風説流布して、あるいは直弼をもって安政疑獄の当時、無辜の領民を虐殺したる者となし、彼が毒手に倒れたる吉田松陰が門下の間に反対の議ありという者あり。あるいは直弼の条約締結は畢竟(注・結局)違勅の沙汰、これがために銅像を建つるの理、いずれのところにあるべきといきまく者、宮内の大官中にも少なからずとの説もありき。(引用おしまい)
日比谷公園に土地を借りての銅像作戦でした。今度は、外国との条約を怨みに思う宮中まで参加しての直弼いじめ。桜田門外の変からやがて30年になろうかというのに、ネチネチと井伊直弼ならびに彦根士族をディスり続ける藩閥や公家どもの性根がみにくいですね。
旧臣たちは、それでもめげずに銅像建設実現へ奔走したようですが、内務省が翌年になって突如「形像取締規則」なる法令を発布しました。その第1条に「官有地及び公衆の往来出入する地において永久保存の目的をもって人物その他の形像を建設、移転、改造、または除却せんとする者は、東京市、京都市、大阪市にあっては内務大臣、その他の地方にあっては地方長官の許可を受くべし」とあります。この時、第1次山県有朋内閣。長州閥中でももっとも器が小さいと言われるこの男が許可を出すはずありません。銅像計画はまたも葬り去られます。しかし、元藩士たちの忠心は、なお燃えさかるのでした。
三度目の正直は1909年。井伊家の旧臣が購入した横浜・掃部山の土地一部の売却益4万円で敷地内に直弼の銅像を造ります。私有地ですから、形像取締規則には引っかかりません。この掃部山4千余坪全体を、直弼像もろとも横浜市に寄付してしまう。これまでにない壮大なプロジェクトでした。市は山を公園として管理する、園内に市立図書館を開設するが、建設費のうち2万円を井伊サイドがこれも寄付する。
亡くなった殿様の名誉のためなら資産を投げ打つ覚悟が素晴らしい。横浜市民は直弼の開港条約がもたらした市の発展に感謝して大乗り気でした。開港記念日に銅像除幕式が予定され、後はその日を待つのみ。しかし、やはりお上は黙っていなかった。同年7月1日付の同紙「井伊直弼銅像問題(3)」から引用します。
(前略)談がかく進むに連れて、忽然として干渉は来たれり。
曰く、私人の銅像を私有地に建つるものならば格別、横浜の小公園として寄付せんとする地域内に建つるとありては、よろしくまずその筋の許可を申請すべしと、これ神奈川県警察部より通牒し来たれるところなり。
(中略)ここにおいてもまたもや様々な風説は伝われり。水戸出身の香川敬三(注・宮内官僚)、その宮中における勢力を利用して長州出身の吉田派の者と気脈を通じ、さかんに各方面に向かって妨害運動の最中なりといい、この運動の結果、28日の史料展覧会開会式の当日、横浜に出張して開港の事歴を講演すべかりし三上参次博士(注・日本史学者)が事に託して出張を謝絶したりといい、水戸派、長州派の異論者と横浜市民の板挟みとなりたる周布知事は、進退きわまりて帰省を名として難局を避けたりといい、あるいはこれ旨を受けて故意に任地を去り、もって記念祭当日の除幕式を間に合わせまじとせるなりといい、また土方(久元)伯、その他の有力者は、横浜市が井伊家より銅像及び建設地の寄付を受くるに至らば、祝賀会に臨席せずと言い出したりといい、そのほか蜚語ふんぷんとしてほとんどその適従するところを知るべからず。(引用おしまい)
長州・水戸をはじめとする明治藩閥の悪らつな妨害行為が露骨です。しかし、これらもあってこそ人の成す社会。人間臭さを感じさせるエピソードではあります。除幕が遅れこそすれ、銅像はめでたく披露されました。長州閥の桂太郎内閣から、除幕式への出席者はゼロ。それでも井伊直弼像は現在も掃部山から、自ら開いた横浜の街を見下ろしています。家臣団の体温を感じます。汗の臭いがするお話です。
他方、人の体臭がないまま、「花燃ゆ」第1部「俺の妹がこんなにオカシイわけがない」は終了しました。いや、妹だけでなく全員がめちゃくちゃな奇人変人だったから、「萩城のドボチョン一家」と呼んでもいいかもしれませんね。

不作為が生む戦前回帰への危ぐ

今後予想される展開は、「松陰先生の死をムダにしない」といった暴論がまかり通ることです。イラク戦争に自衛隊を派遣した際、外務省の職員が殺された事件で、小泉純一郎首相が派兵継続の具にした言葉と同じです。さらにさかのぼれば、第二次世界大戦は、この文言がまかり通ったが故に早めの終戦工作が除外されて、行き着くところまで行ってしまったのではないのですか。
ズサンと危険思想は違うのかもしれません。でもね、予想できたであろうリスクを意図せずして道を誤った事例は歴史に枚挙にいとまがありません。「花燃ゆ」は、歴史への配慮に対し、あまりに無防備です。無知が生む危うさが電波に乗せられる心配がある以上、監視視聴する必要のある作品であります。現在の低視聴率は、日本人の危機感の薄さの裏返しではないかと危ぐしてさえいます。
元彦根藩士たちの忠義と行動には敬意を覚えます。小田村伊之助の「尽くし、動かざれば、なお尽くす」なるセリフは、彼らにとってこそふさわしい。「花燃ゆ」登場人物のだれもに欠けている要素でしょう。
制作サイドは、長州藩士たちへの敬意を持って作品づくりをしていると思えません。自分にとって、この作品を世に出す意味は何なのか? それが見えていないから、身内の出演者に他局でバカにされるのではないでしょうか。