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2015/03/30

「花燃ゆ」第13話感想「エボラと爆弾テロ」

桂小五郎が致命的なセリフを口にしました。「井伊直弼が朝廷の言うことを聞かない」云々。「朝廷」とは「天子をトップにいただく政権」です。江戸時代なんだから施政権は幕府にあります。譲って学者や公家、上級武士ならともかく、桂じゃあねえ。早く暗躍する公家と接触させて、チョーテーをキーワードにしとけば良かったのに。歴史ドラマに歴史を知らぬ脚本家を起用した末路として、「花燃ゆ」は記憶さるべし。
今回は「コレラと爆弾」がタイトル。およそお粗末な防疫と、流行を外国のせいにする論法、攘夷に名を借りた爆弾実用化実験が語られるのですが、現代に生きるみんなは当然、今を意識した価値観で視聴しますよね。
西アフリカではエボラ出血熱が猖獗を極め、欧米でも感染者が出ました。これはアフリカの人たちのせいなのでしょうか?  そんなのはヘイトスピーカーの言ですよ。
女性やこどもの自爆を含む爆弾テロも世界中で行われています。「花燃ゆ」には「志」「事を為す」といった、無意味な言葉が行動原理としてひんぱんに登場します。己が信じるものあれば何をしてもいいのか?  立ち止まって考える必要はないのか?  吉田松陰のアクションが、「とにかく行動」を標ぼうする長州出身の現職総理大臣と重なり合うのは偶然でしょうか。
冒頭に述べたおかしなセリフや、21世紀の問題とかぶる無神経さ加減は、現場で修正可能だと思われます。それが行われ得ぬのは、仕事への敬意が欠けているのではないのか、と疑ってしまいます。
本作でずっと気になっているのが、登場人物たちの無個性ぶりです。武士は皆同じような月代(さかやき)で、医者は判で押したように総髪。主人公は結婚しても、笄(こうがい)に結うなどの女房髷をスルーして往来を歩きます。
さらに違和感を覚えるのが着物です。その着方、歩き方によってキャラクターを立たせることができる便利な道具。ところが、若手の和服はそろって糊の効いたきれいなものばかりです。大B丹市の急造モデルみたい。祝言で酔った高杉晋作が左えりだけ乱して、あれが役づくりだってんなら、役者なんか辞めちまえと思います。
つい言葉が汚くなってしまいました。申し訳ありません。しかし、こうした無関心が集積することで、前述した問題点が看過されているのではないのか?
 おかしいと感じたら過去に学びましょう。1963年、大河ドラマの第1作「花の生涯」に八千草薫さんが、井伊直弼(尾上松緑)の正室役で出演しました。八千草さん、80歳を過ぎてなお可憐な美しさは健在です。
1973年6月3日付の朝日新聞に、八千草さんが着物の美しさについてのエッセイを寄稿しています。「私の歳時記」から引用します。
冬の間、かたいつむぎの袷(あわせ)をしゃきっと着る楽しさも好きですが、新緑の、吹く風もさわやかなころ、単衣(ひとえ)の着物をふわりと着るとき、おんなの体の優しさがとても出るような気がします。体のまろやかさが薄い絹をとおして感じられるからでしょうか。
子どものころ、母が着物を好きだったせいか、学校から帰るとすぐに洋服を脱がされ、着物を着せられて育った昔を思い出し、ふだん着としての着物がもうなくなってしまったなとさみしい気がします。今はもう着物というとよそゆきというおすましになってしまって、ふだんの、多少乱暴にふるまういろんな動作から出る美しさや色気みたいなものが本当の着物姿の美しさだと思うのに、だんだん飾りものの美に変って(ママ)きてしまうのが惜しい気がするのです。
秩父めいせんとかいうふわっとした単衣ものを着て、兵児帯(へこおび)を花のように後ろでむすんで、それでなわ飛びをしたり、かくれんぼしたりして遊んでいたころをふと懐しく(ママ)思い出します。(引用おしまい)
日常生活で着物を着る機会が少なくなっているのは理解できますが、時代劇にかかわるのであれば、着付けぐらい自分でやって、スタイルや所作を研究するのはプロの務め。現行大河のスタッフ・キャストにそこが足りないと断ずるのは性急に過ぎるでしょうか。
八千草薫さんには一見お嬢さん育ちのような品の良さがありますけど、3歳で父親を亡くしたり、空襲で焼け出されたりした苦労人です。昨今の制作者や俳優さんが実生活でそんな苦労を負う必要はありませんけどね。
工夫とか教養、演技力なんかは、苦労を厭わぬ姿勢がないと磨かれるものではないのだと言っておきたいのです。