コピー禁止

2015/02/18

「花燃ゆ」は作品か、コンテンツか?

映画やテレビドラマなどの映像作品を「コンテンツ」と呼ぶの、やめませんか?
この言葉からは、著作権ビジネスのニオイが、カネのカオリがプンプン漂ってきます。「コンテンツ」は作り手の想いを排除した一語。この単語が流行し始めて以来、東西ともに映像劇から作品へのこだわりが感じられなくなったように感じるのは、おじさんの思い過ごしでしょうか?
人間を描くことをおこたる、近年の大河ドラマの多くは、「コンテンツ」の典型だと感じます。「花燃ゆ」第7話を視聴して、その意を強くしました。
セリフの日本語文法がいちいち引っかかります。小田村伊之助の「日本に向け、我が長州の名を知らしめす力たり得るものと信じるものにございます」のモノモノ重複とか、吉田松陰の呼称が「兄上」と「あやつ」の併用だとか。伊之助がバカに見えます。頻出する「申す」の使い方にも違和感を覚えますね。
国語力以上に問題なのは、脚本家の構成力。吉田松陰が殿様の意向に反して、牢屋に居座るとぬかした時には、ぽかーんと口を開けてしまいましたよ。救国のヒーローが、なぜここで、ニートな快適ジェイルハウスライフを選択する?
具体的に示されていませんけど、日本に列強の魔の手が迫っているらしき状況下、国防国防と大騒ぎしたあげくに脱藩して東北へ向かい、米艦への密航まで企てた松陰を構成する核を、2月の半ばにしてぶち壊してしまいました。宮部鼎蔵、ムダ足。金子重之輔、犬死に。
大義なき蛮行はただの狂気。この松陰が「諸君、狂いたまえ」と語ったら、松下村塾生の返事は「お前がイカれとるわ」に決定です。
来週から塾がスタートですか。だれも興味がない杉家にどっしりと置かれていた物語の軸足が分散すると思えば、今後の興味もわこうというものです。しかし、予告編にしつこく出てきた久坂玄瑞の暴れっぷりに不安が。顔がカメラ正面を向いた画ヅラのワンショットだけで、かなり笑えそうな雰囲気でした。こりゃたぶん笑うな。早く禁門の変で死んでもらって、東出昌大さんには演技修行の旅に出ていただきたい
いよいよ高杉晋作も登場。楽しみですが、高杉なる人物を描く上で、妻妾問題は避けて通れません。正妻と愛人のストーリーを、いかにして日曜夜8時のお茶の間へ届けるのか、お楽しみです。
妻帯していた高杉には、「おうの」という愛人がいました。維新後も長州出身者たちの庇護を受け、悠々自適に暮らしたようです。
1888年6月17日付の大阪朝日新聞「高杉氏の未亡人にあらず」から引用します。仮名遣いなど、おじさんが現代風に改めています。
このごろの諸新聞に故高杉晋作氏の未亡人が過日、馬関にて山縣(有朋)伯に会い云々との事を記載すれど、これは故高杉氏の未亡人にあらず。すなわち妾なり。この人、元は馬関稲荷町の妓女にして、名をお梅といい、その性、淡泊にして俠気(注・義俠心)あり。ゆえに一時、俠妓の名あり。
深く高杉氏の眷顧(注・ひいき)を受け、遂に落籍せられてその妾となり、高杉氏死して後、髪を剃り尼となりて、梅女と称し、当時高杉氏の親友讃州高松の日柳燕石氏(注・香川の志士)は、美人薄命、早く英雄に別れを憐れみ、一詩を賦して贈りし中に「鴛鴦衾底春風冷ややかに、燕子楼中夜月寒し」の句あり。爾後(注・それ以来)、常に馬関に居住すれども時々東京に出で、長州出身貴顕(注・名士)の邸に滞留すること多し。
すでに先年出京せし時、山縣伯の邸にあり。ある日、墨染の衣を着け、新橋辺を通行するおりしも、一両の馬車に数名の警護巡査が付従せるもの、向こうより馳せ来たり。梅女と尼とすれ違うとき、車中の主人公、急に声をかけ、「梅女さん、どこに行くか」と言うにつき、車上を見れば井上(馨)伯なり。伯は今しも熱海に赴かんとする途中にてあれば、こ「これより熱海に同行しては如何」と言われ、「ハイ、参りましょう」とすぐに伯の馬車に飛び乗りしには、護衛の巡査も一驚をきっせしごとくなりしと。
しかるに、山縣伯には梅女の帰り来たらざるため、いずこに行きしやと、伊藤(博文)伯にも語りて、ともに一時心配して諸方を尋ね回りしうち、熱海より郵便の着し、初めてその行方のわかり、安心せられしということもあり。また、その人となりの淡泊真率なるを見るべし。
しかして、高杉氏真性の未亡人と言えるは、現に東京にあり。実父谷丹治氏と同居し、伊藤伯その他長州出身の貴顕が今に世話なしおり。かの新国民大辞典(近日の諸新聞広告に出ずるもの)の著者高杉東一、旧名谷春雄と称するが、すなわち高杉氏の遺児にして、同氏は先に伊藤伯に随い(ともない)、欧州を巡回せる途中、たまたま病にかかりて帰朝し、今はハワイ国領事館の書記生たりと。(引用おしまい)
おうのは、巷間伝えられる豪放な印象がある高杉に似合いの奔放な女性だったようですね。テレビに出てくる、何かと押し付けがましいどこかの妹が持ち合わせていない明るさが、明治の元勲たちに愛されたゆえんだったのかもしれません。
高杉の実子が長州の縁故採用?  権力の周りのしがらみは、いずこの世にも不変です。コネがない我が親を恨みましょう。おじさんもほしかったなあ、コネ。
さて、高杉らの登場によって「花燃ゆ」は快作へ豹変することができるのでしょうか。彼の辞世の句とされている言葉から、打開策を述べておきます。
「おもしろき大河無き夜をおもしろく、すみなすものは脚本なりけり」
大河ドラマが作品に戻れるのか、ダダ流しのコンテンツに終わるかのキーでしょう。