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2019/09/14

池上彰を疑え!

池内紀と池上彰

メディアから日々流れてくるニュースは玉石混交で、特に最近は石の方がかなり多いよ、というのは、これから社会に出る、もしくは社会に出て間もない若いみんなにも知っておいてもらいたい大事なことです。
膨大な量の情報を自分の頭で取捨選択、整理して何が正しくどれが間違っていて、あなたや家族、友人たちはどうするべきなのか。
先日亡くなったドイツ文学者で優れたエッセイストでもあった池内紀が、ナチスドイツから亡命時のトーマス・マンの日記を分析した「闘う文豪とナチス・ドイツ トーマス・マンの亡命日記」(中公新書)は、社会の右傾化、国家の全体主義化に備える考えを養うための好著ですが、天性の才に恵まれたこの作家が、さらには世界各地の事件・事項を論理的にまとめ上げ、思考を進める教育を受けていたことが記されています。東京で起きた二・二六事件に触れたくだり(41ページ)より引用します。
日本国首都のクーデタを記述するペンは、ドイツの首都における独裁政権の動向を伝えるものと、まったく同じである。イタリアのファシスト集団や内乱の前兆を見せるスペインと、スイス・ジャーナリズムの混乱――マンの日記は同時代史がいわば数珠つなぎになっており、その長大な数珠には細くて強い糸が通っている。新聞やラジオの報道によりつつ、もとより半分もうのみにしない。とりわけドイツからの報道が、どれほど操作され、かたよったものであるか、存分に知っていた。真実に一歩でも近づくためには、さしあたりここにあるものを手がかりにして、ここにないものを思わなくてはならない。そんな心のはたらき、精神の力。マンの日記は同時代の私的クロニクであるかたわら、一貫して自分に課して実行された精神の力のまたとない記録だった。(引用おしまい)
池内がトーマス・マンの思考法に言及したのは、自身がそうした教育を受けてきて、読者にも共有してほしいと望んだからでしょう。今日は、池内紀のような疑う視点を持って、民放テレビ局で引っ張りだこの池上彰さんが展開する「わかりやすいニュース解説」番組について考えます。

反日誘導 おい、マジか

おい、マジか。池上彰の「ニュースを疑え!」(文藝春秋)表紙
池上さんのテレビ解説で「おい、マジか」と思ったのは、2017年に見たTBSの番組。当時の朴槿恵・韓国大統領が様々な疑惑で追及され、数多くの次期大統領候補の名が挙がっている最中でした。彼らの名前をすらすらと読み上げた池上さん、恐るべき語を継ぎました。
「でもこの人たち、みんな反日なんです」
うわぁ、と茶の間で背筋が寒くなりました。隣国の為政者へさっそく日本国民に偏見を植え付けかねない、危険な司会だと感じました。
「反日」という言葉は、もともとは日本政府の侵略や植民地政策に反抗する中国や朝鮮の人たちの側が使った言葉で、昔の新聞では日本政府が主語の場合、「排日」等を使用していました。それが大きく変わったのは、おそらく朝日新聞阪神支局の記者殺傷事件の犯人からとされる「反日分子処刑」の犯行声明以降だと思われます。今では日本の政治外交、文化、戦前の国体を賞賛する歴史観などへの異を唱えるものはすべて“反日”事案にされて、韓国政府・国民への国を挙げてのヘイト乱用のキラーワードとして、ネットや週刊誌、新聞、テレビにあふれる「日常語」になりました。こんな事態になるとはご本人も思わなかったでしょうが、思慮に欠ける発言でした。
池上さん自身は「反日」を口にすることにこだわりがないようで、他局の同じような番組や、今年の正月に出演したラジオ番組でも、「反日」をネガティブな意味ではなく日常的な感覚で使っています。「中国・韓国の人たちに話を聴くと、反日的言辞もあるんですが……」といった次第。
テレビはわかりやすく視聴者に刺さる刺激的な言葉を求めます。一方で、理解に時間や手間がかかる事項は省略します。池上さんの「わかりやすいニュース」を求める視聴者の多くは、ニュースへの理解度が白紙に近い状態で、「わかりやすい時事解説」を求めています。放送局の狙いもそれです。そこへ、テレビジョンの権威によるミスリードが起こったら……。
NHKの「世界プリンス・プリンセス物語」で、リヒテンシュタイン公国の皇太子にインタビューした池上さんは、「税率を低く抑えて外国の資本を導入している」と、同国の政策を賞賛しました。でも、金満セレブや大企業の脱税が問題になっている、けしからんケイマン諸島などのタックスヘイブンと、素晴らしいリヒテンシュタインの違いは? 番組では教えてくれません。
テレビ朝日では、チリの軍事独裁政権によって「多くの社会主義者が逮捕・拘束された」と話したことがありました。池上番組好きのイノセントな視聴者の多くは、「私と家族は社会主義者じゃないから厳しい法律ができても大丈夫」と考えるかもしれません。しかし、個々人が社会主義者であるか、テロリストであるかを決めるのは、取り締まる側にあります。
番組で名前をはしょられた独裁者アウグスト・ピノチェト将軍は、一説には大量虐殺を含め10万人に危害を加えたそうです。自分はテロリストじゃないけれど、取り締まる側がそう判断したら檻の中に送られかねない共謀罪という制度が、我が国にもできました。
2分間ほどの時間で歴史的事件を解説する「ニュース大辞典」(テレビ朝日系)という番組で成田空港開港40周年を解説した時は、成田闘争が土地の強制収用に対する農民運動だった背景をすっ飛ばして、いきなり過激派が国に反対運動を仕掛けたとイメージさせる乱暴なつくり。権力の側からすれば、今後に活かせる印象操作の参考となったでしょう。
池上彰情報を鵜呑みにせず、池内紀的に疑って考えて身を守りましょう。「そうだったのか!!」じゃなくて、「ホントにそうだったのかぁ?」の出発点として、物事を考える出発点のみとして、池上番組を見るのです。

テレビにのまれるジャーナリスト

池上さんは、国政選挙の投開票日にテレビ東京の速報番組を仕切るのが定番となりました。毎度のキャッチフレーズは「池上無双」。ジャーナリストとしての無敵性を示すことで、番組の信頼イメージを向上させる、テレビ宣伝の常套手段ですが、ひるがえって考えれば、池上彰の権威化・神格化を池上さん本人が是認しているということでもあります。権威化したジャーナリストほどタチの悪いものはないというのは、ナベツネとか、戦前戦後の政界を我が物顔で闊歩した朝日新聞の緒方竹虎(大河ドラマ「いだてん」にも登場)だとか、枚挙にいとまがありません。数多くの冠をかぶって民放各局を回る池上さんですから、池上ビジネスで禄を食む関係者も大勢いるでしょう。そのせいか、最近はテレビ擁護の筆致も見られます。
報道系番組ではスポンサーは一切気にしません。メディアには「権力の監視」という重要な役割があり、スポンサーの意向で報道が偏ってはいけないからです。(「池上彰の未来を拓く君たちへ」日本経済新聞出版社、225ページより引用おしまい)
キー局にあまたある政権批判ができないヘタレ報道番組のスポンサーにアパホテルが入っていて、報道内容が気にくわないから番組提供を降りると放送局を恫喝する美容整形外科がニュースになる時代ですけど、ギャラの出所にはジャーナリストも歯向かえないってエクスキューズなんでしょうか?

本田靖春の気概

以上、申し述べてきたのは、主に池上さんのパーソナリティに起因するものというより、テレビの抱える本質的な問題です。池上彰を呑み込んだテレビジョンのイシュー。
テレビで「反日」なんて言ってしまう近年の池上さんを見ると、かつてテレビ朝日「モーニングショー」の顔だった元朝日新聞記者・江森陽弘の顔が浮かびます。新聞とテレビのメディアの違いに慣れず、1988年に降板すると月刊誌へ不満たらたらの投稿をやっちゃいました。それに対してノンフィクション作家の本田靖春は、痛烈な江森&テレビ批判の一文を朝日新聞に寄せました。同年7月24日付の同紙「TV時評 記者とタレント化」より引用します。
かつて『モーニングショー』(テレビ朝日系)のキャスターを3年半ほどつとめた江森陽弘さんが『体験的「テレビ&新聞」批判』とうたった一文を『現代』の8月号に寄せている。
それによると、新聞記者であった江森さんは、<ニュースのプロ>であることを自任し、<だから企画検討の段階で「こういうニュースをやろうと思うんだが、どんな角度で切ろうか」と、当然そんな相談が持ちかけられるものだと思って>キャスターの仕事につく。ところが、実際は大違いであった。番組が終わると翌日の台本ができ上がっていて、キャスターのコメントの一字一句まで決められているのである。
<実際に扱った事件でいうと、妻が夫を殺した事件をいくつかまとめてやったことがある。そのときのコメントには「なんてひどい奥さんでしょう。夫を殺すなんてとんでもない主婦です。どんな事情があろうと人を殺すなんて……厳罰に処してほしい」といったことがすでに書いてある。さらに、そのすぐあと、「はい、コマーシャルです」という具合である>
江森さんは右のような実例を挙げて、キャスターがいかにスタッフに軽んじられているかを書くのだが、文章のどこを探しても、スタッフとたたかった跡が見当たらない。
「ニュースのプロ」を自任するからには、事件現場を一度も踏んだことのない、その面ではアマチュアの構成作家が書いたコメントなど、拒否すべきであろう。だが、江森さんはそうはしなかった。
いや、ある程度の抵抗はしたが、新聞界とは縁が切れてテレビ界に“住民票”を移したいま、その間のやりとりを書くと身辺にさしわたりが生じるので書かなかった、ということかもしれない。
それはともかく、文章を読むかぎりにおいて、江森さんはいとも簡単に次の結論に達している。
<キャスターに問われるのは分析力や洞察力ではなかった。台本に書かれたセリフを覚える能力と、それっぽく伝える演技力なのである>
そうした意識の切りかえができたからこそ、3年半もの間、キャスターがつとまったのであろう。しかしながらそれは、ジャーナリストとしての自己否定につながる道であったといわざるを得ない。そこのところはご本人も分かっていると思うが。
江森さんは新聞社の仲間から<「電波芸者」視>されたことがご不満のようである。
そうした表現が適当かどうかについては議論の余地があろうが、別の番組に出てハーモニカを吹きだした江森さんを新聞社の仲間が顔をしかめて見ていたとしても何の不思議もない。かりそめにも新聞記者を名乗るものが、テレビでハーモニカを吹いてはいけないのである。そのわけはいうまでもなかろう。
<しかし、私の吹くヘタくそなハーモニカを聞いて感激した地方のお年寄りがいたとか、亡くなった父を思い出したとか(略)という手紙を読んで、少しはお役に立ててよかったと思った>と江森さんは書く。なんと素朴なお人であることか。お役に立つ道はハーモニカとは別のところにありはしなかったか、と注文をつけるのが、ついためらわれるほどである。
個人攻撃のようになってしまったが、私の本意はそこにあるのではない。<大衆の中を歩き耳を傾け、音とニオイに敏感になること>が<ジャーナリストの原点>であると信じてきた1人の新聞記者をスタジオに閉じこめ、出来合いのセリフをしゃべらせることから始まって、ついにはタレント化させてしまったテレビ界の体質を問題にしたかったのである。
新聞記者の肩書をはずした江森さんが、これから先テレビでハーモニカを吹かれようとも、個人の立場でなさることに口をさしはさむつもりはない。余計なことだとは思うがつけ加えておく。(引用おしまい)
本田靖春は読売新聞記者から独立した作家でしたが、しがらみのできるテレビ出演をとことん断って、軟弱な大手メディアには終生牙をむき続けました。自民党の大物大野伴睦の記者会見を政治家側の人間として取り仕切る政治部記者(ナベツネ)など、気にくわぬ人物には、遠慮なく怒りの筆先を向けました。
以前、自分が「新聞は日々の歴史を刻むべきもの」だとしたエントリ(前川喜平問題における読売新聞の「挙証責任」)をリリースした後、朝日新聞に同じ趣旨のコラム(新聞の責任 事実を刻む、歴史の証人)を、よりわかりやすく詳細に執筆した池上彰さんは、さすがプロの文筆家だと思わせました。尊敬する人物の1人であります。
とはいえ、池上さんが今後、テレビで「反日騒ぎ」をいさめることはできないでしょう。やれば、その言葉は自身へのブーメランになります。だから、若いみんなには一つだけの言葉やテレビの情報を丸々信じて踊らされることなく、トーマス・マンのように目を凝らし、耳をそばだてて集めた情報を脳内でミキサーにかけていくようになっていただきたいのです。
数多くの人命と資源を失い国土が灰燼に帰した1945年のみじめな亡国のドイツを見るトーマス・マンの日記から、池内紀は以下のような感慨を持ちました。「闘う文豪~」169ページから引用します。
何もかもが過ぎ去ったとき、どうしてあんなことを許したのかと、他人ごとのようにして人は不思議に思っている。個人はいかに無力で、良心について考えるのがいかに難しいことであるか。ある体制を容認し、むしろ有利にはかるのは「第一級の犯罪行為」だというのに、それを認めるどのような言葉も聞こえてこないのである。(引用おしまい)
「ある体制」は、日本政府とも社会とも取れるし、江森陽弘から池上彰にまで続くテレビ業界にも当てはまるでしょう。反日ヘイトにまみれた昨今の亡国日本を救うためにも、みんなで実行しよう。
池上彰を疑え!