トランプ・金正恩・文在寅・習近平・プーチン……出演者は以上
ドナルド・トランプ米大統領が北朝鮮の金正恩朝鮮労働党委員長と電撃会見を行ったニュースには、多少は衰えたりと言われながらも強大であり続ける米国の国際的存在感を感じさせられました。韓国の文在寅大統領は現場に立ち合いました。中国が両国の仲裁にコミットしているのは間違いないし、北朝鮮と国境を接する利害関係国ロシアも動いている可能性が高い。東アジアでは日本だけが蚊帳(かや)の外。最近では蚊帳を張ることも少なくなって、若いみんなの中には、「蚊帳の外=仲間はずれ」の感覚が伝わりにくいかもしれないから、トランプ大統領に通訳なしで得意げに話しかける姿をNHKに流させることで“豊かな語学力”をアピールする安倍晋三首相風に英語の慣用句で言えば“Japan is left out in the cold.”。今回の状況だと、冷水ぶっかけられて寒風吹きすさぶ屋外に独りたたずむ日本国という絵図がわかりやすいかな。
経済的に圧力をかける手段のみに頼った結果です。自民党お得意の「この道しかない」というヤツですね。道が行き止まりになったら立ち往生するしかない。ひいては「戦争するしかないじゃないですか」なんて言い出すバカがのさばる論法にもつながります。
安倍さんだけ特別に外交の勘が悪いというわけではありません。きっと、アメリカに裏切られたんですね。強固な同盟を築いていると思っていたら手のひら返し。何しろドナルド・トランプときたら、安倍さんの母方の祖父である岸信介が米国に魂を売ってまで成立にこぎつけた日米安保条約を不平等だとボロカスに言うわ、新型機の共同開発国であるカナダでさえ、欠陥あるから要るの要らんのと大モメしている戦闘機を大量に空自へ引き取らせるわ、内閣つぶす勢いでムチャをしかけてきます。参院選の投票前に貿易密約も自慢げにツイートしちゃうかもね。
佐藤・ニクソン、安倍・トランプの相似
アメリカ人に隷従、その靴をなめまくった末に痛い目を見た政治家は、安倍さんのみにとどまりません。首相の母方の大叔父佐藤栄作もその1人です。今回のトランプ訪朝の歴史的端緒である朝鮮戦争を経て、米国は、正当な中国政府は台湾の国民党政権(国府)であり、大陸の共産中国を認めないという方針を取り続けてきました。追従する日本政府と自民党は蒋介石の国府べったり。親方の威光を背に毛沢東、周恩来らの人民共和国を無視してきました。ところが、1971年7月にリチャード・ニクソン大統領が米中国交正常化を電撃発表したのです。
親分米国が三下日本の頭越しに不倶戴天の敵との国交正常化を発表しました。「この道しかない」と一本道を突っ走ってきた永田町・霞が関はパニックにおちいります。ボスにならって中国共産党と仲良くしなくちゃいけません。話し合わなきゃ、国交正常化しなくちゃなりません。でも、話し合うパイプがありません。オホーツク海高気圧が張り出した影響で冷夏となった1971年7月の東京で、佐藤栄作は“Sato was left out in the cold.”を文字通り体感したわけです。
状況を変えたのは、死の床にあった元政治家が個人的に築いた、細いけれど強じんな1本のパイプでした。
日中関係を修復した男
松村謙三の名を知る人は、永田町でもずいぶん少なくなったでしょう。富山県出身。吉田茂の行き過ぎた官僚政治に激論をもって挑み、岸信介の強権政治には、自民党内にありながら倒閣を打ち出した硬骨漢でした。三木武夫と組んだ小さな派閥は紆余曲折の末、2017年に麻生派へ吸収されましたが、大手メディアの報道では、三木の名は出ても松村については一言も触れなかったのが大方。もはや忘れられた政治家です。明治後半、松村の進学先早稲田大学には数多くの中国人留学生がいました。彼らと交友を結んでいた松村は戦後、破壊された日中関係を修復するため幾度も個人の資格で中国を訪れます。その情熱はやがて、藤山愛一郎、田川誠一ら保守穏健グループを巻き込み、国府支持の自民党とは無関係な訪中団となります。早大学生時代からの盟友廖仲愷夫妻の息子で共産党幹部となった廖承志を窓口に、周恩来首相にも信頼され、途絶えていた両国間の通商を、簡便な覚書貿易の形で復活させました。国交のない共産国家を個人の資格で5度訪問。衆院議員引退後も訪中を重ね、最後は健康状態悪化の中、客死覚悟で車椅子に乗っての旅でした。
ニクソンの方針転換の報を松村が聞いたのは、まさに死の床。それから間もなく、松村謙三は自身の死をもって日中関係を前進させたのでした。
1972年9月12日付の朝日新聞「日中戦後小史36」から引用します。
「わが国としても、まだ打つ手はあるよ。佐藤君(当時首相)、中国に出かけ給え」ーー日中打開に政治生命を傾けてきた松村謙三氏は、71年7月のニクソン訪中決定のニュースを、重い病の床で知り、こうつぶやいた。そして8月21日夜、中国をめぐる国際情勢が劇的な転換を始めたさなかに、その生涯を終えた。松村氏死去を知った中国側は翌22日、周首相と中日友好協会名誉会長郭沫若氏、同協会会長廖承志氏の連名で、遺族に対し「松村先生の病逝(せい)を知り、悲しみにたえない。松村先生は、日本の遠見に富む政治家であり、その晩年を中日友好事業にささげて重大な貢献をし、中国人民の深い尊敬を得ている」と、心のこもった弔電を送った。死せる松村、生きる佐藤を走らす。
続いて23日、中国側は松村氏の葬儀に、中日友好協会副会長の王国権氏を派遣することを決めた。日本政府が中国敵視政策をとっているような情勢のもとで、政府要人の日本訪問はしないという方針だった中国側としては、まさに異例の措置だった。
王氏来日のニュースは、頭越しのニクソン訪中決定によって方向感覚を失っていた政府を色めき立たせ、佐藤首相と王氏との会談をなんとか実現させ、対中関係打開のきっかけをつかもうと、いちるの望みをいだかせた。25日よる来日した王氏を出迎えに、政府側から竹下官房長官が羽田空港にかけつけたのも、その“切ない望み”のあらわれだった。しかし、肝心の日中復交に対する方針を持たない、場当り(ママ)的な政府側のこうした努力は、すべて空振りに終った。26日、東京・築地の本願寺でおこなわれた松村氏の葬儀で、注目された首相と王国権氏の出会いの場面があったが、首相の「遠路はるばるありがとうございました。お帰りになりましたら周首相によろしく」というあいさつに、王氏も「シェシェ(ありがとうございます)」と笑顔でこたえるだけの、儀礼的なやりとりであっけなく終った。
王氏の来日は、政府側が意図したような政府間接触のきっかけをつかむ糸口にこそならなかったが、日中友好を求める各界には、重要な足がかりとなった。自民党の三木武夫氏、民社党の春日委員長は、王氏との会談でいずれも訪中実現への手がかりをつかみ、一方、財界でも、木川田(一隆)経済同友会代表幹事、永野(重雄)日商会頭らのトップクラスが王氏と接触し、財界指導者訪中への地ならしをした。さらに大衆運動の分野でも、日中友好協会正統本部が、東京で開いたその大会に王氏を迎えて、長年続いていた内輪もめに終止符を打った。(引用おしまい)
北京政府は松村の恩に報いるために要人を日本に送り、佐藤は会談にこぎつけることができました。多くの政治家、財界人が訪中のきっかけを得て、当時のご多分に漏れず社会党系・共産党系で割れていた日中友好協会すら両派の復縁が成った。松村謙三の功績です。
翻って現在の対北朝鮮外交。金正恩委員長をはじめとする労働党幹部と話し合うルートはあるのでしょうか。国連の議場で甲高い声を出し、ひたすら北朝鮮を非難し、経済制裁のみを説く、“この道”を突き進む我が国に、松村謙三はいるのでしょうか? リチャード・ニクソンがドナルド・トランプに替わり、毛沢東が金正恩となり、佐藤栄作が安倍晋三に代替わりしました。繰り返されようとしている歴史の物語に、松村謙三だけが見当たらないのです。
48年前と同じ7月の寒空に独りたたずむ日本を、暖かい屋内にある東アジアの仲間の輪に招き入れてくれる人、だれかいませんか?