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2017/05/04

おかしなおかしな改憲論議

「情緒」で憲法を語る総理大臣

3日の憲法記念日に、神道政治連盟の改憲推進大会に安倍晋三首相がビデオメッセージを送ったニュースが流れてましたけど、何だったの、アレ? 自衛隊の存在を9条に明文化するってヤツです。
国のあり方を決める基本の法律が憲法。行政組織の根拠をいちいち書き込む法規範・根本法なんて聞いたことがありません。感情で法律を左右しちゃいけませんよ。
憲法25条に「国は、すべての生活部面について、社会福祉、社会保障及び公衆衛生の向上及び増進に努めなければならない」とありますが、保健所をわざわざ条文に加える必要はないし、30条で納税の義務が定められているからといって税務署を憲法に書き入れますか? 自衛隊員の皆さんの日々のご苦労は理解しますが、国民のために懸命に働いているのは保健所も税務署員も同じでしょ。自衛隊への国民の信頼は9割を超えているから憲法に名称を入れる理屈なら、同じく支持率9割を超えているであろう保健所も入れなくちゃいけない。職業差別はよろしくありません。
情緒で法律をいじられたらかないません。特に改憲ともなれば、改定によって日本をいかなる国としたいのか、その「理念」を語ってもらわないとさ。総理大臣が床屋清談まがいの情緒のみで国の将来決めたら、国際社会からも幼稚な人に見られちゃいますからね。
野党もダメなんだよね。「立憲主義に反する」と言うだけじゃ批判の論拠が有権者に伝わらないでしょ。立憲主義とはどういうもので、安倍さんの言葉のどこが、憲法の考える国のあり方のどこに抵触するのか、かみ砕いて具体的に発信しないと、何も伝わりませんよ。

「権力をおそれない権利」

現行憲法は、参政権や男女同権を含む基本的人権を我が国に初めてもたらしました。4月30日の「NHKスペシャル 憲法70年“平和国家”はこうして生まれた」の調査報道でも改めてわかりましたが、平和を希求する日本人たちが、連合軍総司令部と一緒に練り上げたものです。
70年前、初めて国民に付与される「公民権」を広く知らしめるため、GHQは記者会見を開き、その立法の理念を広報しました。
1947年5月1日付の読売新聞「歴史的新憲法の実施」から引用します。
(前略)公民の自由、すなわち民権とは個々人が法律に基く(ママ)正規の手続きによる以外他のいかなる干渉も受けることなしに行為と自己のもつ財産の享受を確保する権利であってこれはまた個々人が一切の公務にたいし自由にそしてなんらの差別もなしに平等の基礎に立って参加する権利でもある。また自己の良心の命ずるところに従って考え、話す権利であり、一切の人間が自分の信ずることを支持しさらに自己の信念にたいしては自分で責を負うという権利である。男女を問わずあらゆる人が白昼公然と外を歩き、いかなる人にも制度にも屈せず、どういう権力や圧力をもおそれない権利なのである。同時に個々人が自分の判断に基いて社会にたいする自分の責任をとりそれを遂行する権利である。
信念を持った自由な社会の人ならば他の人々が何をいおうと決しておそれない。彼は他人が彼に損害を加える事の出来ないことを知っているし、彼が悪いと考えたことを強制的に承認させられたりしないことも知っている。また彼は不公正な法律を非難しその廃止を要求する自由を持ち彼が人民の利益に反すると考える官吏のあらゆる行動に公然としかも精力的に反対する自由を持つとともにこれらの法律を変更し、このような官吏を罷免するために公民権を行使する自由のあることを知っている。
(中略)今日本国家における政府の地位と責任はきわめて重要である。責任ある日本の民主政治を目指して政府が平和的かつ漸進的(ぜんしんてき)な進歩を確保すべく努力していることは十分認められている、一部日本官吏の間にみられる伝統的な制度へ復帰の傾向、すなわち国民の意見にはお構いなしに国民にとって良いとか正当だと思われることに基いて決定が行われるというような傾向、それは統治よりはむしろ支配にすぎないのであるが、かゝる傾向は徹底的に廃棄されねばならぬ。いかに地位が高くとも官吏には、正当な市民的経路および過程を通じて形づくられ、表明された個々の日本国民の欲望、要求、決心などを無視したり、反対するような法的ないし道徳的権利はないはずである。
政府の官吏は国民に対する責任を引受け(ママ)これを果さねば(ママ)ならぬ。選ばれて公務上の指導者となったものは、昔からの標語や古ぼけた封建的習慣伝統をしりぞけねばならぬし、また暴力で脅かしたり公平な利益を與えない(あたえない)といって圧迫したりして人々が公然と公務に参加するのをさまたげることに対しては公然と抗争非難せねばならぬ。これこそ民主主義の精神である。
日本国民は各自が自由な生活を営む権利と自分たちの官吏を選んで国民の決定と判断に従うことを要求する権利を持っている。新憲法のもとでは、各市民は自由な社会の構成分子であり、この社会の力はその成員の非利己的、自発的な協力から発するものである。(引用おしまい)
国民が公僕の上位に位置する、民主国家日本国家のあり方をわかりやすく説明したものです。理念を理解すると、私たちは良い憲法のもとに暮らしているのだなあ、と改めて感じます。この理念あって私たちは民主主義国家で生活できるのですが、「男女を問わずあらゆる人が白昼公然と外を歩き、いかなる人にも制度にも屈せず、どういう権力や圧力をもおそれない権利」があるはずなのに、共謀罪法案が国会に出てくるってのはどういうことなんだ? ありゃ違憲じゃないのか?

文句を言う権利が自由を守る

憲法記念日を前に、各メディアが改憲の是非を問うアンケート調査をやりました。でも、あの結果は国民の意識を本当に反映しているんですかね。中国の外洋進出、北朝鮮の核実験やミサイルの問題があって、改憲事案の一般的なイメージは9条に限定されがちに見えます。「人権の保障」を意識して答えた人はどのくらいいたんでしょうね。憲法によって保障された民権を知らず、行使の主張をしなかったら、「官吏の統治」は戦前みたいに「支配」へたちまち逆行しちゃわないでしょうか。
軍国主義に長年へつらってきた当時の日本人の間に民主主義が定着するかどうか、GHQも相当な不安を抱えていたようで、憲法施行直後に再び記者会見を開き、国民に注意喚起を行っています。
1947年5月18日付の読売新聞「“責任ある自由” 新憲法と個人の発見」より引用します。
(前略)現在では日本の政治面の支配的要素としての個人の重要性が次第に日本人の中に芽生えて来ている。何百年に亘る(わたる)ものの考え方や慣習が一朝一夕で衣更えできるものではない。また個人の自由とは無制限の自由を意味するものではなくむしろ負うべき義務と責任をわきまえた近代社会の責任ある構成員が享受し得る自由である。
それは各個人をして単に人間としてのみならず人間社会の責任ある構成員としてもまた自らを完う(まっとう)せしめる自由のことである。この“責任ある”という言葉は意義が重大である。
法律も官吏もこの責任を強制することはできないが公民各自が責任の遂行を怠ったならば必ずや自由は失われ、権利は否定される結果となるであろう。(引用おしまい)
“責任ある自由”とは、自由である権利を常に主張せねばならない、ってことですね。黙ってないで、官吏に文句を垂れろと。さもなくば共謀罪がやってきて、必ずや自由は失われ、権利は否定される結果となるんですよ。