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2016/05/04

熊本地震と憲法

熊本地震による小中高等学校授業の全面再開はいつになるのか。校舎や通学インフラの被害状況がまとまっていませんから、こどもたち自身・親御さんもご心配でしょう。文科省・県教委はじめ関係者は十分にご苦労されていると思いますが、最善の努力を尽くしていただきたく願います。
過去の震災の例から、少なくない数の児童生徒が県外に移動するケースも出てくるでしょう。言葉が違うからといって、転校生がいじめの対象になることも考えられます。教育現場は大変ですけれど、その辺の配慮も忘れないでいただきたい。
1923年の関東大震災の際にも、多くのこどもたちが首都圏を離れざるを得ませんでした。後の劇作家木下順二少年は、東京から熊本市に居を移しました。新天地では結構ないじめに遭ったそうです。
関東大震災の2、3年あと確か5年生の時だったと思うが、僕は帰住する父親に連れられて熊本に帰り、白川尋常小学校に入れてもらった。転校しての最初の記憶は、登校の第1日目に教室で読本を朗読したら、みんなからどっと−−というのも少々大げさだが−−笑われたことである。つまり僕の東京語がおかしかったわけなのでそれから当分、ひと言ひと言について僕は冷かされいじめられた。もちろん僕は猛然と熊本弁を勉強しないわけには行かない。そして暫く(しばらく)経ったある放課後、僕たちは古荘先生を探していた。宿直室にも小使室にも先生の姿は見えなかったので、僕は帰って来てみんなに「古荘先生はおらっさん」と云ったらまたわらわれてこづき廻された。むろん僕は最上の敬語として、「おいでにならない」と云ったつもりだったのである。(未來社刊・木下順二評論集2「熊本弁」から引用おしまい)
マイノリティがハラスメントの対象にされるのは、大正も平成も同じ。いじめはよろしくありません。なぜいけないかといえば、法律で規定されているから。
憲法26条 すべて国民は、法律の定めるところにより、その能力に応じて、ひとしく教育を受ける権利を有する(太字は引用者による)
被災したこどもは憲法に守られるべきであり、迎える側は憲法を侵すことはできません。足りないもの、不便なことの改善を、主権者がどんどん主張するには、多少なりとも憲法を知っておく必要があるのではないでしょうか。
改憲・護憲論議も同様で、感情論に支配されたネット上のののしり合いは生産性のない便所の落書。最初に読むなら「憲法読本」(岩波ジュニア新書)がオススメです。
憲法読まずの憲法知らずの花相撲は傍から見ると見苦しいのですが、このような国を挙げての床屋清談は今に始まったものでなく、どうやら60年ほど前には行われていました。
1958年10月20日付の読売新聞「編集手帳」より引用します。文中、「中共」とあるのは、中華人民共和国の当時の省略語です。
(前略)無責任な言論の自由ほど害の大きなものはない。戦時中の言論をタナにあげて共産党に入党したり、戦後の民主主義賛美論者、平和論者がいつのまにか憲法改正論者に看板を塗り変えたり、無責任言論の実行者を捜すにことかかない現状である。
自由な言論は時流にまどわされることなく、おのれの正しいと思ったことをはっきりといいあらわす。10年前、小欄の筆者は「右翼」「反動」とレッテルをはった投書をたくさんちょうだいした。10年後のこんにちは、同じ言葉に対して「容共左派」「いつ共産党から金をもらったか」などという投書を辱う(かたじけのう、注・いただきありがたく思うの意)している。
憲法改正に反対すると左派、中共との友好確立を説けば容共、とちかごろの日本の言論に対する評価と格づけは、簡単にして明快にすぎるので、あいた口がふさがらない。自治体警察の解消、破防法、教育2法案、教育委員会の性格改正などに反対し、要するに一連の逆コースに対して批判してきたが、これが10年前は「保守反動」といわれた。
「四方の海みなはらからと思う世」なればこそ、中共というおとなりの国との友好関係確立を叫ぶと、とたんに「赤」だというレッテルをはられる。10年前に、平和憲法を賛美し、提灯をもって喜んだ(注・ちょうちんを手にした市民が街頭を練り歩き、慶事を祝った。ちょうちん行列)のに、いまになって改正に賛成することはおのれの言論に責任を持たないことである。そういうことはできない。
(中略)思うに健忘症の人たちには、言論の自由は守れない。その人たちは責任までを忘れ去っているからだ。(引用おしまい)
一部読者にケンカを売っているも同然の読売の論調がいっそ清々しい。護憲のスタンス墨守の決意が文章から湧き上がっています。
文中にある“健忘症”と、憲法の中身を知らずに憲法論を振りかざす輩は同根。被災地は何を求めるのか、被災者に何をすればいいのか、その手立ては? 非常事態に対し国ができる、なすべきこと、私たちが要求できる事柄は、きっと憲法から読み取れます。読んでみましょうよ、日本国憲法。国民の責任だって規定されているんですしね。
憲法第12条 この憲法が国民に保障する自由及び権利は、国民の不断の努力によつて、これを保持しなければならない。又、国民は、これを濫用してはならないのであつて、常に公共の福祉のためにこれを利用する責任を負ふ
「常に公共の福祉のためにこれを利用する責任」を負担するんだから、被災者への公共の福祉を求めるのも憲法への責任ですよね。
木下順二は、いじめの体験を経て熊本弁のスペシャリストとなり、やがてはこの言葉にすっかり魅了されてしまったようです。「彦一ばなし」をはじめとする肥後方言の戯曲をものした木下は、前述の随筆で「明るい喜劇的要素を十分に含んだこの熊本方言を、もう一つ芸術語として高め且つ一般化する方法がないものか」とまで書いています。
被災地から全国に伝わる現地の声が、明るい喜劇的要素を十分に含んだものになる日が早くやってきますように。