コピー禁止

2016/05/02

「真田丸」第17回感想 「再会か最下位か」

ワイルダーならこうする

ビリー・ワイルダー脚本(共作)・監督の映画「第十七捕虜収容所」(1953年)の登場人物たちは、クセ者ぞろいのいけ好かない野郎ばかりです。中心的人物といえるウィリアム・ホールデンにしても、連合軍捕虜とドイツ人の間でケチな物品横流しを生業にしているクズ。ところが、だれもが次第に魅力あるクズどもに見えてくるんですね。かたき役のドイツ人将校役で出演した映画監督オットー・プレミンジャーまでが憎めない。これは計算されたセリフの魔力が成せる技ではないかと思うのです。言葉が洒落ています、生きています。
「ビリー・ワイルダー 生涯と作品」(シャーロット・チャンドラー著・古賀弥生訳、アルファベータ刊)で、プレミンジャーは以下のように語っています。
「ビリーは一言一句にこだわっていたよ、なにしろ彼の言葉だったんだから。わたしは彼のような監督のしかたはしなかった。ビリーはウィーンの出身なのに、監督としてはプロシア軍の将校並みに厳しかったね。彼は物腰が穏やかだし、とてもいい話し相手だし、すばらしい監督なんだが、自分の言葉の扱いについては厳格だった、じつに厳格だったよ」(引用おしまい)
当方の基準で、ワイルダーは“巨匠”や“名匠”ではありません。脚本ができた段階で作品をどう撮るかが頭の中で出来上がっている、いわば“職人”。映像劇で「職人」とは最高のホメ言葉です。その点を踏まえて、日本史をつくった巨人たちが集う割には、共感できる人物がほぼ皆無となっている「真田丸」第17回「再会」を見てみましょう。このところ、タイトルにまったく意味を感じません。大事なことだと思うんですけど。

三谷幸喜さんはこうした

タイトルロールにまずビックリ。若手舞踏家の名が並んでいます。東京藝大卒業者のサークル「藝◯座(げいまるざ)」に声をかけたんですね。東藝大閥に頼るのが、いかにも権威好きな放送局らしい。同時にクレジットされた演奏家にも藝大出身者の名があります。将来の日本伝統文化を背負って立つ逸材を並べて、劇中で女優が叱り飛ばしながらダンス指導する場面には引きました。ものを知らないというのは恐ろしいことです。
タイトル直後のナレーション、もうやめない? こないだの上田合戦が「決戦(雌雄を決する最後の戦いの意)」で、今回は「真田にとって最大の危機」。この後、関ヶ原時の上田城攻防戦、大坂冬夏の両陣なんかが控えてるんですよ。アオリも度重なると、こどもだましになります。毎年“閉店セール”を続けてる大阪あたりの商店じゃないんだからさ。
今回、真田信尹は顔を出しませんが、内通者として大活躍。徳川家康が信尹を召し抱えるにあたり、「裏切っても構わん」なんて言ってましたけど、あれは今回のチャッちい電報打つための伏線でしたか。家康と信尹の心理的な関係を脚本がつくっておかなかったせいで、東照大権現はとんだマヌケにされました。一方、魑魅魍魎の政治の中心大坂城からの次男坊の手紙を待ちわびる真田家一同。制作上、これからは情弱一家で押し切る腹づもりのようです。
秀吉も理屈の通らぬ話を始めます。家康に出兵を命じながら、中止命令を出す。徳川からすれば部門の恥となります。三方ケ原の戦いで、武田の大軍相手に「逃ぐるは武門の恥」と、城から討って出たとされる徳川さんですから。どこが「あいこ」なんだか。家康も「真田を成敗」じゃなくて、「征伐」とか「討伐」だろ。暴れん坊将軍かいな。大坂に来ない真田昌幸を攻撃しない秀吉の心理もナゾ。セリフへのこだわりが、てんで感じられません。まあ、家康は「権力が右と言うものを左と言うわけにはいかん」と、そんたくするNHKらしい対応でした。
主人公が理由なく持ち上げられる“花燃ゆ化”は、今回さらに進行しています。秀吉「お前は利口な男だ」、石田三成「不思議な男。薄っぺらい小僧が上杉、家康、秀吉の心をつかむ。何者なのだ、お主は」。主人公は何者なのだってのは視聴者の問いですよ。「前に進もう」なんてヤンキー論理しか披瀝できない、薄っぺらい信繁は何様? 視聴者への答えは「真田昌幸の次男坊です」でした。視聴者として、何が言いたいのか熟考してみましたが無理でした。「吉田松陰の妹、文でございます」と同じ。以上のような無意味なセリフでなんとなく主役を立てようとするのが、民放で一時期流行ったヤンキードラマのようです。
ヤンキーといえば福島正則・加藤清正の2人も、生徒会長に食ってかかる知性の低い放課後の不良です。殴りかかる正則、顔面大接近で三成にメンチを切る清正。「お前のやり方はここ(ハート)がねえんだよ」と湘南爆走族になり切ります。大河ドラマじゃなくて「警察24時」の登場人物ですね。こんなのが遠因で、後に三成は襲撃されるはめになるのか。文治派も武断派もあったもんじゃない。くっだらない話です。大河視聴者にヤンキー層を取り込もうとしているのでしょうか。やめとき。
キャラクターづくりが、何かのゲームからいただいてきて終了したごとく深みがない。天下を狙う秀吉と家康の梟雄(きょうゆう)が、面談で互いの小心を競うなど信じられぬ光景です。小牧長久手の戦いを描いておけば、まだ感情の交流が得られたかもしれませんが。間にはさまった“人結ぶ弟”信繁、ジャマ。
両者の対面シーンで、毎度の劇伴としてテーマ曲が流れるのですが、1回くらいやめてみませんか? 「また始まった」とうんざりします。演出が音楽に頼り切るのは本末転倒。魅力的に描けていれば、視聴者は軽々にチャンネル替えませんって。「第十七捕虜収容所」の主題曲は作中、冒頭のクレジット、中間のキャスト合唱、口笛から始まるラストシーンの3回のみに収められておきながら実に効果的です。「真田丸」は無駄だらけ。

ベテラン脚本家はこうやった

今日は脚本家の中島丈博さんが映画「祭りの準備」(ATG)の脚本で毎日映画コンクール脚本賞を受賞した時の寄稿から、テレビドラマの脚本家のあり方について考えてみます。1976年7月3日付の毎日新聞夕刊「シナリオを書く……」より引用します。
(前略)私にとってテレビドラマの脚本を書くことは、それなりに面白く、映画のシナリオを書くのと同じように大切である。多分に制約はありながら楽しいのは、この仕事が先ず(まず)脚本家中心であるからである。テレビドラマの場合、ディレクターよりも脚本家の体質、力量が決定的である。
どちらかと言うと、テレビドラマを書く時の私は職人ライターに徹しており、映画のシナリオを書く時は、やや意識的にアマチュア的冒険心を残している。
(中略)結局は他にこれといった展開があるわけではないから、ひたすらシナリオを書きつづけるだろうし、そうであれば、出来るだけ長命なライターになりたいわけである。
幸い、と言えば変だけれども、昨今は新人シナリオライターもほとんど生まれず、作家協会が毎年公募するコンクールでも、決まり文句のように応募作品の質の低下が嘆かれているから、我々もまだ当分は仕事に困ることはないのではあるまいか。
こうなれば、爺(じじ)イになるまで、シナリオライターの現役でいてやるぞと腹を決め、先輩たちの忠告通り、今後は体力をむやみにすり減らす仕事はしまい、高額の脚本料で数少なく、いい仕事を選んで長く生きようとして身構えているのだけれども、今、私のところに来ている仕事の注文は何かと言えば、それは、欲求不満の監督たちが映画化のアテはないけれど、脚本料を支払うから書いてくれというシナリオがほとんどなのである。(引用おしまい)
テレビドラマは脚本家中心、職人ライターに徹する。監督主導となる映画と違い、テレビジョンにおける脚本家の地位を知ることができます。踏み込んで言うなら、ディレクターより自らの力量が重要だとのシナリオライターの自負が必要だということ。三谷幸喜さんは果たして、脚本家監督ビリー・ワイルダーや中島さんのごとき職人意識をもって「真田丸」に臨んでいるのか。一流の舞踏家たちを女優が説教する場面など、少し考えれば没にできるはずです。
「ビリー・ワイルダー 生涯と作品」によれば、「第十七捕虜収容所」の脚本執筆についてワイルダーは以下のように語っています。
「『第十七捕虜収容所』でホールデンが演じた役が大好きだったよ」ワイルダーは言った。「映画の最後で彼が出発すると、寂しかった。彼の最後のせりふを書いたときも、寂しかった。彼は無事に逃げおおせたと思いますか、と訊かれるんだが、逃げおおせたと思うよ」(引用おしまい)
ワイルダー作品にあって、三谷ドラマに欠けているものが、もう一つあったようです。キャラクターへの感情移入。脚本家にその思いがあれば人物は魅力的になるし、散見すらできぬなら視聴者はついてきません。