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2016/04/19

「真田丸」第15回感想 「秀吉とヒデヨシ」

芝居をしない芝居

成瀬巳喜男監督の代表作「めし」を名画座で上映するというので、飛んでいきました。
いい作品には、見るたびに新しい発見があります。出演者が皆、自然体で演じています。自然体という表現でいいのかな。「演じていない」感じを観客に提示している。原節子・上原謙の大スター扮する夫婦が、次第にリアルな庶民に見えてくるのは、そうした「演技の排除」のせいなのかもしれません。
「仲代達矢が語る 日本映画黄金時代」(春日太一著、PHP新書)に、その一端が垣間見られます。成瀬は仲代さんに以下のような注文をしたそうです。
「なるたけ私の映画ではじっとしててね」
「君は芝居の新劇から出た、まあ、今でも新劇にいるらしいけど、いわゆる新劇のお芝居はしないでね」
「つまらんテクニックは使わなくてもいい。なるたけ静かに演技してね。立ってるだけでいいからね。黒澤(明)君とこでやってるみたいな、ああいう大げさな芝居しないで」
役者に頼らずリアリティを追及するには、画割りやセリフの完成度によほど自信がなければいけません。時代劇の場合は、演技にある程度の様式美が求められることもあるでしょう。でも、それがクサくなりすぎれば、ただの田舎芝居。「真田丸」第15回「秀吉」はどうだったんでしょうか。

戦国坊っちゃん?

前週のラストで巨大な大坂城に圧倒される真田信繁を見せておきながら、冒頭に「巨大な大坂城に圧倒される信繁」とのナレーションを入れ、直後に巨大な大坂城に圧倒される信繁を再び見せる演出は何なんでしょうね? 視聴者の記憶力を過小評価してるんでしょうか。ナレのムダ遣いでもあります。
信繁が秀吉の顔面を人差し指で差す、無礼モードで始まる両者の対面。関白殿下も、小わっぱにそんな真似をされたら、このころ最大の懸案だった島津なんかほったらかして、真っ先に真田を征伐したくなりますわな。
行き先は吉野太夫の興座。一級の太夫を京都島原から大坂に招いて住まわせていたんですか? さすがは太閤。へええ、ありえないほどの強大な権力です。閑吟集から拾った歌を披露する吉野。後年の吉原花魁(おいらん)もそうですが、太夫といえば和歌、古典などの教養にすぐれた才女です。座敷で客に手を重ね媚を売るなど考えられませんが、「真田丸」ではやります。場末のスナックママが「ヒーさん、おビールもう1本いかが?」と、注文を促すために色気を振りまいてるみたい。吉野太夫は、大河「武蔵 MUSASHI」でも主人公に同衾を迫るハスッパ遊女のごとく扱われていました。大河史上、もっとも過小評価されている人物かもしれません。
そのスナックママに入れ揚げて、「ラブホ行こう、ラブホ」と口説いてる田舎の成金社長が秀吉ね。あっさりフラレて、「行っちゃうのか?」と現代語。殿下、イタすぎますぞ。
石田三成に詰問された秀吉が遊興の動機を信繁に押しつけたり、信繁自身がトガをかぶったりする場面は笑うところ? ここで問われもしないのに、外出を自分のせいにして権力者をかばい倒す主人公の慇懃無礼っぷりにはヘドが出そうですよ。機転が利くキャラ提出のつもりだったんでしょうか。視聴者には夏目漱石の「坊っちゃん」に出てくる美術教師にしか見えませんがね。来週から「真田丸」改め「野だいこ」として放送したら? 「殿下、石垣の曲がり具合ったらありませんでげす。ターナー城と名づけましょう」などと、赤シャツ着た秀吉に進言すればよろしい。
上田では真田親子が秀吉に付くかどうかの鳩首会談。これまでの戦では、草の者を存分に使っての情報戦が得意だった昌幸が、途端に情弱化してあーでもないこーでもないと逡巡を続ける田舎豪族にキャラ変しました。次男坊を立てるための脚本戦略上の優柔不断です。信繁が野だいこなら、意見の定まらぬ親父はうらなり君。あとは家康の狸を加えて、熱血漢の本多忠勝を山嵐にすれば、まんま「坊っちゃん」だわ。
昌幸の妻もキャラ変。気位の高いヒス女から心優しい母親へと、やっと本来の高畑淳子さんらしい人物に変換されました。こっちのほうがよほど良いんだけど、ちょっと古い視聴者は、昭和の「真田太平記」で、上流階級出身らしい気品を備え、権謀術数が服を着たような丹波哲郎昌幸と対等に座する芯の強さを見事に演じた小山明子さんと比較してしまいます。初期設定を間違えた脚本家の責ですね。

人格を補完し合う役者たち

話が大坂城に戻ると、遠慮を知らぬ野だいこが、治部少輔三成様に自己アピール作戦を開始しました。「なぜ私にウソをついた?」。小豪族の次男坊風情が外交オンチにもほどがある。加藤清正の泥酔っぷりも再放送。酔っぱらいの回想シーンって意味あるの? 大谷吉継も人を見る目が狂ってます。「三成は曲がったことが嫌い。理が立ちすぎて人を立場で図る」。前後のセリフが1人の人物評として相矛盾していますが、こんな日本語でドラマを進行して大丈夫なんでしょうか。
大丈夫じゃありませんでした。秀吉は上杉景勝に対し、「上杉謙信の嫡男が目の前にいると思うと感無量」などと言い出しました。「嫡男」とは家督相続権利の継承有資格者であって、大名になって何年もたつ男に対して使えば、「俺はお前を正統だと認めていないよ」という意味になります。正式に主従関係が成立する以前の段階で景勝を「お主」呼ばわりするのも、礼を失していますね。秀吉の政治センスは、こんなバカより相当高かったはずですが、上杉と戦争でも始めたいのでしょうか。けんかを売る際のいくさ言葉としては、隆慶一郎っぽくてカッコいいですけど、ここでは場違い。
景勝を放置した間に信繁と会見した旨を告白する意図も、政治的には逆効果だとしか思えないのですが、まさか「心優しい信繁」推しのワンエピに過ぎなかったのか。真田の親は滅ぼす、子は引き立てる。この齟齬は、来週にも解消されるのでしょうか。検地相談での豊臣秀次サゲ、信繁アゲを見せつけられると、今後が不安になります。ラストは信繁が、まったく提出されずに視聴者が知ろうはずもない秀吉像のアゲセリフ。キャラクター同士による相互補完により「真田丸」は進んでいくのでしょうか。

ヒデヨシ、Who?

小日向文世さん、お疲れ様です。こんな秀吉だったら、思いっきりオーバーアクトにせねば成立しません。成立できませんでしたけど。小日向さんなりの秀吉が見たかった。今回のだれとも知れぬ「ヒデヨシ」なら、正直どこにでもいる中高年俳優で構いませんでした。
自然でありながら深い表現をテレビでやると、視聴者が早々にチャンネルを変えてしまうと思われているのでしょうか。面倒くさい芝居は要らない? 世界的な映画職人だった成瀬巳喜男の理想を、すべてテレビジョンに反映させろと無茶を言うつもりはありませんが、そんな姿勢もたまにはあっていいのではないでしょうか。
テレビドラマで「演じないこと」を実践した、少なくとも試みた役者がいました。大河ドラマ「太閤記」で豊臣秀吉を演じた緒形拳はその一人です。同作20年後の1985年、尾形はNHKのドラマ人間模様「羽田浦地図」に出演しました。9月27日付の朝日新聞夕刊のインタビュー「ほっとトーク」(菅野拓也記者)から引用します。
(前略)尾形 海を埋め立てて羽田空港がつくられ、漁師は追われた。「羽田浦地図」という原作は、一見随筆みたいだが、鉄のように強じんな人なんですね、小関(智弘)さんという人は。ああいう人にはとてもひかれますね。だから、ほとんど演じてない。ぼくの子供のころはほとんど底辺でしたから。
ーー好んで演じる役には、体制に反発するとか、国家権力に反抗するとか、底辺に生きる人間たちが多いが。
尾形 人間って、生きてると絶えず左をとるか右をとるかがある。一見汚いけど、香月泰男の絵にはきらめく深さがあるなあ、と。偏見だけど、汚いものはあきない。黄土色と黒色の父と子がいる(注・香月の代表作「父と子」のこと)、暗いけど骨格がしっかりしている。だからぼくの代表作は、どうしようもないおやじと、そのおやじを殺しておふくろを捨てる映画「楢山節考」。貧しさ故のね。あれも演技してない。
ーー演技って形とか型になりがちだ。
尾形 絵と同じで、デッサンがしっかりしてないと。熊谷守一の絵なんて、一線描きみたいでいて、牛が「すっ」と出てくる。
ーー舞台、映画、テレビと出ていて、役者って何なのだろう?
尾形 どうあるべきかはわからないが、ぼくは世の中にこんな面白い仕事ない、と。わがままで勝手で、好きなことしてよくて、スキャンダラスであろうとかまわない。40になって映画へ出たとき、映画がダメになってて、みんなで作らざるを得ない、とてもいい時期だった。シナリオ、監督、カメラマンがいて、血を通わせる役者がいて。総ギリのタンスを頼まれたら、木が乾くまで待ってくれという態勢で。いまは木が乾くのが待てずにつぎからつぎへとなるから。そういう監督には殺意さえおぼえますね。
(中略)ーー撮影に入ったら、絶対にひかない?
尾形 ひきませんね。自分が面白くならなきゃ、完全燃焼できないから。(引用おしまい)
尾形は少年時代に一家離散を経験、赤貧を味わった体験があります。それゆえ貧者・困者を演じる際、演技を必要としないとの意味なのか。このインタビュー、抽象的でわかりづらいのですが、演技をしないことを演技者が表明するのは、俳優としてよほどの自信がないとできないことでありましょう。基本ができていなければ、演技しない演技を自覚できないとも。成瀬が映画を作っていたころは、こんな俳優がうじゃうじゃいた、ってことですかね。先人恐るべし。
むろん俳優は人間ですから、アプローチは人それぞれ。先に挙げた丹波哲郎は、総理大臣役であっても真田昌幸を演じても、タンバでしかありませんでした。丹波節で長ゼリフを延々と語る丹波哲郎を見ながら、私たちは丹波が絶対無二の丹波として作り上げた真田昌幸を、劇中の人物として認識したものです。
いずれにせよ、俳優が演じるも演じないも結果は現場次第。和気あいあい、なあなあの妥協が吐き出した作品なんて視聴者は見たくありません。自分が面白くなれないダメ現場の役者たちは、緒形拳のようにもっともっと殺意を覚え、覚えた殺意をどんどん表に出してもらいたいものです。